大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和47年(合わ)4号 判決

本籍 《省略》

住居 《省略》

著述業 福冨弘美

昭和九年一月一〇日生

〈ほか四名〉

右福冨弘美に対する爆発物取締罰則違反及び犯人蔵匿、桐野敏博、須藤正及び岩渕英樹に対する爆発物取締罰則違反及び窃盗、外狩直和に対する窃盗各被告事件について、当裁判所は、検察官遠藤源太郎、同小谷文夫、同川崎和彦及び同尾崎幸廣各出席のうえ審理をし、次のとおり判決する。

主文

被告人五名は、いずれも無罪。

理由

第一窃盗及び爆発物取締罰則違反被告事件の概要、争点及び証拠関係

一  窃盗及び爆発物取締罰則違反被告事件の概要と争点

本件窃盗事件は、昭和四六年五月七日ころ東京都小金井市内の団地で中古の普通乗用自動車(後記コロナ四三二三車)一台が盗まれ、のちに同月二七日同都千代田区麹町における交通事故の際現場にこの車が遺留されていて発見されたという事件であり、また、本件爆発物取締罰則違反事件は、同年八月七日同区一番町にある警視総監公舎に若い男が侵入して手製爆弾を仕掛け、その場で一旦警察官に発見されて、捕えられそうになったものの、これを振り切って逃走し、その後間もなく同都新宿区坂町の靖国通り上に右逃走に使用された疑いのある普通乗用自動車(後記四六八〇車)が放置されていたという事件であるが、被告人ら(二瓶一雄を含む。以下同じ。)が右両事件の犯人として検挙、起訴された経緯は、右靖国通り上に放置されていた四六八〇車の所有関係などから、被告人須藤、同福冨及び二瓶らが爆発物取締罰則違反事件の捜査の対象となっていたところ、その捜査の過程で、右総監公舎からほど近い場所で起った前記四三二三車の交通事故が判明し、捜査の結果、被告人福冨及び二瓶が同車に乗車していたとの嫌疑が生じ、まず、同車の窃盗事件について右両名が検挙され、うち二瓶の自白に基づいてその他の被告人も検挙され、その後被告人須藤、同外狩及び同岩渕も自白して、結局、同事件については、右二瓶、被告人須藤、同外狩及び同岩渕のほか否認していた被告人桐野の五名が起訴され、他方、右窃盗事件による身柄勾留中に被告人らに対して前記爆発物取締罰則違反事件についての取調べが行なわれ、その結果被告人須藤及び二瓶がこれについて自白し、その後被告人岩渕も自白して、結局、同事件については、右二瓶、被告人須藤及び同岩渕のほか否認していた被告人福冨及び同桐野の五名が起訴されたというものであって、両事件とも、証拠からみると、被告人らを当該事件の犯人と特定するのに十分な客観的証拠が乏しく、被告人らの自白が事件の成否を左右する主要な証拠となっているのが特徴である。

ところで、被告人らは、公判廷においては、いずれも、当該犯行を全面的に否認する供述をしており(なお、二瓶は、自己の第一審においては各犯行を認める旨を供述していたが、その後控訴審及び証人として出廷した当裁判所においては各犯行について全面的に否認する供述をしている。)、被告人ら及び弁護人らは、被告人らの自白は、捜査段階、特に警察段階の取調べにおいて強制、脅迫あるいは利益誘導などが行なわれた結果得られたもの、あるいはこれを踏襲するものであって、いずれも任意性、もしくは信用性がないとし、更に、被告人らには本件各犯行に関していわゆるアリバイが存在するとして、両事件につき、被告人らはいずれも無罪である旨主張している。

そこで、以下、右両事件について、それぞれ、まず証拠上明らかに確定できる事実(以下、単に客観的事実という。)及び捜査の経緯に関する事実を認定したうえ、主として、当該事件に関する客観的証拠及び被告人らの自白について検討を加えることとする。

二  証拠関係《省略》

第二被告人桐野、同須藤、同岩渕及び同外狩に対する窃盗被告事件(以下、単に窃盗事件という。)

一  公訴事実

本件公訴事実は、「被告人桐野、同須藤、同岩渕及び同外狩は、二瓶一雄及び佐藤憲一と共謀のうえ、昭和四六年五月七日午後一一時ころ、東京都小金井市本町四丁目五番一―一七先路上において、伊藤照子管理にかかる普通乗用自動車(トヨタコロナ多五せ四三二三)一台(時価約六万円相当)を窃取した。」というにある。

二  当裁判所の判断

1  客観的事実

前掲第一、二1(一)・(二)の各証拠等によれば、本件窃盗事件に関して、次の各事実を認定することができる。

(一) 被告人らの経歴及び本件窃盗事件当時の生活状況

(1) 被告人桐野は、昭和四三年四月日本大学文理学部中国文学科に入学し、昭和四四年三月同大学を除籍になっていたもの、被告人須藤は、昭和四二年四月同大学同学部同学科に入学し、昭和四四年三月同大学を除籍になり、そのころから実父の経営する「美田合成」においてプラスチック加工業に従事していたもの、被告人岩渕は、昭和三七年四月同大学芸術学部文芸学科に入学し、在学中から著述業などの仕事に従事し、昭和四三年九月同大学を除籍になったのちも同業などに従事していたもの、被告人外狩は、昭和四二年四月同大学二部経済学部経済学科に入学し、昼間は運送業、薬品店等のアルバイトをしていたもの、被告人福冨は、昭和二八年四月早稲田大学教育学部社会学科に入学し、昭和三三年三月同大学を除籍になったのち、新聞記者等を経て、雑誌などの原稿執筆の仕事に従事していたもの、二瓶は、昭和四一年四月日本大学文理学部物理学科に入学し、昭和四四年九月同大学を除籍になっていたものであるが、被告人桐野、同須藤及び二瓶は、昭和四三年に日本大学で生起したいわゆる学園紛争の際、その活動の中で知り合って互いに交際するようになり、また、被告人岩渕及び同外狩は、昭和四五年ころそれぞれ知人を介して、被告人桐野と知り合い、その後、被告人岩渕、同外狩、同須藤及び二瓶は、被告人桐野の紹介で同年一二月に開店した後記スナック「ローラン」などにおいて、互いに知り合うところとなり、他方、被告人福冨は、前記日本大学の学園紛争の際、被告人桐野と知り合い、その後、同被告人を介して被告人須藤や二瓶と顔見知りとなったこと

(2) 被告人桐野は、昭和四五年一〇月ころ、同大学経済学部の横浜頼光らとともに、東京都新宿区西新宿に前記学園紛争に伴う活動の連絡事務所として「十月社」を設立し、機関紙「連合戦線」を発行するなどの活動を始め、右「十月社」の活動には同大学法学部の学生であった佐藤憲一が参加したほか、二瓶及び被告人須藤や同外狩も若干の手伝いをしたこと

(3) 同年一二月ころ、被告人岩渕は、東京都杉並区高円寺において、被告人桐野及び二瓶の協力を得てスナック「ローラン」の営業を始めたが、翌昭和四六年二月ころ、店舗の都合で営業できなくなったことなどから、被告人桐野、同岩渕、同外狩及び二瓶は、同年三月ころ、蜂蜜などの中国物産の販売を目的とする「楼蘭公司」をつくり、事務所を同都新宿区《番地省略》KフラットC号所在の被告人岩渕宅に置き、二瓶が会計を担当し、被告人桐野や同外狩などが商品の仕入、販売にあたり、被告人須藤も自宅の自動車(フローリアンバン)で商品の運搬を手伝うなどしたこと

(4) なお、被告人岩渕は、同年四月二六日、妻和恵とともに、同区三光町にバー「淵」を開店し、営業を始めたこと

(5) 他方、同年四月ころ、被告人桐野、同須藤、同岩渕、同外狩及び二瓶は、「桜蘭公司」などの仕事をするかたわら、各自が関心をもつテーマを取り上げて発表するという形式の学習会を計画し、長谷川エミ子、国分葉子、岩渕和恵らも参加して同年五月から七月にかけて、水曜日の夜に岩渕宅で断続的に学習会を開いたこと

(6) 二瓶は、同年五月二三日、それまで居住していた同都杉並区《番地省略》所在の小長谷アパートから、同棲中の佐々塚由美子とともに、同都中野区《番地省略》所在の小林方へ転居したこと

(二) 四三二三車盗難被害発生状況

(1) 昭和四六年五月七日午後一一時ころから翌八日午前七時四五分ころまでの間に、東京都小金井市本町四丁目五番東京都住宅供給公社小金井本町住宅(以下、単に本町住宅という。)C一号館一七号伊藤健方北側前道路上に駐車中の同人の妻伊藤照子管理に係る普通乗用車トヨペットコロナデラックス(RT二〇D型紺色、車両番号多五せ四三二三、以下、単に四三二三車という。)一台が窃取されたこと

(2) 現場である本町住宅C一号館一七号伊藤健方前付近は、東西に走る道路と北側に走る道路が交差する三差路となっており、同所から東側が幅員六メートル、西側が幅員四メートル、北側が幅員六メートルの各舗装道路で、右C一号館の北側には本町住宅の他の棟が並び、同館の南側には道路一本を隔てて郵政省宿舎及び稲穂神社があること

(三) 四三二三車の発見状況等

(1) 昭和四六年五月二七日午前二時三〇分ころ、同都千代田区麹町二丁目二番地先交差点(通称麹町二丁目交差点)において、四谷方面から半蔵門方面へ向っていた三好政仁運転のハイヤーが、同交差点で赤信号のため停止していた四三二三車に追突し、更に四三二三車がその前方に停止していた樋口芳雄運転のタクシーに追突するという交通事故が発生したこと

(2) 右四三二三車には二名の男が乗っており、事故直後三好政仁が右二名の男に体の状態などを尋ねたところ、両名は、「近くの知っている医者に行って診てもらう。」旨を述べて現場を立ち去り、以後同所には戻ってこなかったこと

(3) 三好政仁は、その後直ちに、事故の発生を付近の警視庁麹町警察署に届出をし、同署司法警察員丹波守次らが現場に赴き、事後処理などに当たったところ、四三二三車が前記盗難被害車両であることが判明したこと

(4) 事故当時の四三二三車には、被害者伊藤照子の所有以外の物として、後部座席に「蒸留水」という記載のあるガソリン少量入りの白色のポリ容器一個と灯油用ポンプ、助手席の方のボックスにニッパーペンチ、新宿の喫茶店のマッチ数個、灰皿一個が遺留されており、運転席前部のキーボックスの部分が従前のものと異なるやや小型のものと取りかえられ、テープでとめられていたこと

2  捜査の経緯に関する事実

前掲第一、二の各証拠等によれば、本件窃盗事件の捜査の経緯に関して、次の各事実が認められる。

(一) 被告人ら逮捕以前の捜査状況

(1) 前記のとおり、昭和四六年五月二七日、麹町二丁目交差点において追突事故に遭った四三二三車が本件盗難被害車両と判明したため、麹町警察署においては、右事故直後四三二三車に乗車していた者について前記三好政仁らから若干の事情聴取を行なったほか、同車両からの指紋採取、被害者伊藤照子からの事情聴取などを行なったものの、本件窃盗事件の犯人を特定するに足りる資料は見出せず、同月二八日には四三二三車を右伊藤照子に還付したうえ、その後間もなく、関係記録を本件窃盗事件発生地を管轄する警視庁小金井警察署に移牒し、以後本件窃盗事件の捜査はさしたる進展がなかったこと

(2) 他方、同年八月七日、後記のとおり同都千代田区一番町二三番地所在の警視総監公舎において手製爆弾が仕掛けられるという事件が発生し、麹町警察署に設けられた準捜査本部において同事件の捜査が開始されたが、犯行の際に使用されたとみられた車両(後記四六八〇車)の関係などから被告人須藤、同福冨及び二瓶らが事件関連者として捜査の対象となったものの、その犯人とみ得る特段の資料もなく、その後同本部においては、他の捜査と並行して右四六八〇車関係の聞込捜査を続けていたところ、同年九月初めころ、同本部の捜査員が日本交通株式会社後楽園営業所に赴いた際、「同営業所の従業員が以前に麹町署管内で追突事故を起したことがあって、そのときの追突被害車両が右四六八〇車に似ているコロナ車で、その車に乗車していた者二名が事故後現場から立ち去ってしまった。」旨の聞込みを得、同本部において、交通事故関係記録を調査するとともに、事故処理に当たった前記丹波守次らから事情聴取した結果、その交通事故が前記1(三)の麹町二丁目交差点における追突事故であって、当該車両は前記盗難車である四三二三車であり、事故現場から立ち去った者のうちの一人は髭の生えている男であるという事情が判明したこと、そこで、同本部においては、当該車両が四六八〇車ではなかったにしても、右事故現場が総監公舎に非常に近いこと(約百数十メートル)や四三二三車に乗車していた者の不審な挙動などから、四三二三車に乗車していた者が総監公舎への下見中に右事故に遭遇したのではないかとの疑いや、髭の生えている男は被告人福冨ではないかとの疑いを抱くに至り、早速、被告人福冨及び二瓶らの写真を他の写真とともに前記追突事故の関係者である三好政仁及び樋口芳雄に示して前記四三二三車に乗車していた者の指示を求め(但し、髭の生えている男の写真は被告人福冨のもの一枚)、更に、右三好及び樋口を同行して被告人福冨及び二瓶についての現実の視察を行なったうえ、司法警察員松永寅一郎において、三好については同年九月七日付及び九日付で、樋口については同月一〇日付で、いずれも四三二三車に乗車していた者が被告人福冨及び二瓶である旨の供述調書を作成したこと

(3) その後、同本部においては、被告人福冨及び二瓶につき、同年五月当時の居住地付近において、右四三二三車に似た車についての目撃状況に関する参考人(軽部清八など)の捜査を行なったこと

(二) 被告人ら逮捕以後の捜査状況

(1) 同捜査本部においては、同年一一月五日、前記三好政仁、樋口芳雄その他の司法警察員調書などを疎明資料として、被告人福冨及び二瓶の逮捕状の発付を得て、翌六日右両名を本件窃盗容疑で逮捕し、二瓶は、逮捕当初は全面的に本件犯行を否認していたが、その後四三二三車に似た車を見た旨や他の被告人らによる犯行を示唆する旨の供述をしたのち、同月二二日司法警察員西海喜一に対し、本件犯行を認める供述をするに至り、同月二七日窃盗罪により起訴され、一方、逮捕以来一貫して否認していた被告人福冨は、同日処分保留のまま釈放されたこと

(2) 他方、同本部においては、右二瓶の供述に基づいて、同月一七日被告人須藤を、同月二三日被告人桐野を、同月二五日被告人外狩及び同岩渕を逮捕し、被告人須藤、同外狩及び同岩渕は、当初はいずれも本件犯行を否認していたが、被告人須藤は、同月二九日及び三〇日に、司法警察員松永寅一郎及び同小出英二に対して犯行を認める供述をし、被告人外狩は、同年一二月一日に司法警察員大塚喜久治に対して犯行を認める供述をし、被告人岩渕も、同月七日に本件犯行をおおむね認めるかのごとき趣旨の自供書を作成し、翌八日司法警察員高橋充に対して犯行を認める供述をするに至り、被告人須藤については同月八日、同外狩、同岩渕及び否認していた同桐野の三人については同月一四日に、それぞれ窃盗罪により起訴がなされたこと

3  客観的証拠の検討

本件窃盗事件の犯人特定に関する証拠としては、被告人らの自白調書以外の証拠(以下、客観的証拠という。)中には、犯行に関する直接証拠はないが、四三二三車の使用状況に関する証拠として、前記の麹町二丁目交差点における追突事故の際、四三二三車に乗車していた者を目撃していた証人三好政仁(第九回)及び同樋口芳雄(第六回)の各供述部分、本件窃盗事件発生後の昭和四六年五月二二、二三日ころ、二瓶の居住していた前記小長谷アパート前で本件被害車両に似た車両を目撃したという証人軽部清八の供述部分(第六回、第七回)、並びに、同月ころ、右小長谷アパート付近で本件被害車両に似た車両などを目撃したという証人池上昌子(第七二回)、同森下寛(第七二回、第七四回)、同髙久絹代(第七三回)、同神農侑子(第七五回)及び同幡野三男(前同回)の各供述部分があるので、以下、これらにつき検討する。

(一) 証人三好政仁の供述部分(第九回)

証人三好政仁は、前記のとおり捜査段階における同人の供述が被告人福冨及び二瓶の逮捕の資料となった重要な証人であるところ、右三好の司法警察員松永寅一郎に対する昭和四六年九月七日付及び同月九日付各供述調書中には、前記追突事故の際に四三二三車に乗車していた二人の男について「背の高い男は、写真の福冨に間違いない。背の低い方は、写真の二瓶に間違いない。福冨については、実際に同人を見て、その顔や右手で頭髪をなで上げる仕草などから間違いないという自信を深めた。二瓶についても、実際に同人を見て、初め似ていると思った。よく見るとほぼ間違いないと思った。」という旨の供述があるが、同証人は、第九回公判では、「背の高い男は、長髪で目が細くやせ型の人で、ヒッピーとかそういう感じ。鼻の下に髭があり、色は黒く年令二十八、九歳位の人。背の低い男は、僕(身長一五二センチメートル位)と同じかちょっと小さい位で、細い顔でやせ型の人で年令は二十一、二歳位。」と一般的にその人相を述べたにとどまり、被告人席にいた被告人福冨を見て、「目の感じは似ているが、完全にこの人だということは確信をもっては言えない。」旨を述べ、二瓶についても、「もう一人の人が二瓶とは断言できない。」旨を述べているほか、捜査官から示された写真中から被告人福冨及び二瓶を選んだ経緯をみると、被告人福冨については、一〇枚位の写真中髭の生えている男の写真は被告人福冨のもの一枚だけであったこと、二瓶については、写真を見せられたがはっきりせず、捜査官が帰る際もう一度見たところ、この人どっかで見たことがあるような感じがするんだがという程度で選んだことが認められ、更に、写真を見たのち、実際に右両名について見分をした際の印象について、同証人は、被告人福冨については、同被告人が道路を歩いているところや電車に乗っているところを比較的長い時間見たのち、髪の毛をかき上げる仕草はちょっと似ているなという感じをもったものの、「本人を見たときは、なんだかあやふやな感じで、はっきりこの人だということは大分感じが違うという感じだった。」旨を述べており、他方、二瓶については、「体つき、背丈などは似ている感じはするが、はっきりこの人だと断定はできかねるような……」と言葉を濁す供述をしている。

以上のとおり、証人三好政仁の第九回公判調書中の供述部分は、内容的にも四三二三車に乗車していた者の人相などを一般的に述べるにとどまるもので、写真中から被告人福冨及び二瓶を抽出した経緯や実際に両名を見分したときの印象などに関する供述に照らすと、右乗車していた者についての記憶は不鮮明と言わざるを得ず、結局、同証人の右供述部分によって、被告人福冨及び二瓶の四三二三車乗車の事実を認めることは到底困難である。

(二) 証人樋口芳雄の供述部分(第六回)

証人樋口芳雄も、前記三好政仁と同様、捜査段階における供述が被告人福冨及び二瓶の逮捕の資料となった重要な証人であるところ、右樋口の司法警察員松永寅一郎に対する昭和四六年九月一〇日付供述調書中には、追突事故の際に四三二三車に乗車していた二人の男について、「一人は、年令二十七、八歳位で身長一七〇センチメートル位。長髪で顔中髭といった感じの男。もう一人は、年令二十四、五歳位で身長一六〇センチメートル位。長髪でやせ型の男である。」旨や、被告人福冨及び二瓶の実際の見分後の印象として、「福冨については、事故現場で見て覚えているのはもう少し髭が多かったと思うが、よく見ると顔も姿も背の高い方の男に相違ない。二瓶については、写真のときは自信がなかったが、実際に見た結果、顔と体つきからして髭のない方の男に間違いない。」旨の供述があるが、証人樋口は、第六回公判では、「二人連れのうち一人は、一七〇センチメートル以上あり、髪もかなり長く、鼻の下とあごのところにずっとつながった髭があった。」と従前と同様の供述をしつつ、「もう一人については顔を覚えていない。」と述べ、また、捜査官から示された写真中から被告人福冨及び二瓶を選んだ経緯についても、「覚えていないと言うと、似かよった人でもいいからちょっと指さしてくれないかと言われて、一応似ていると思った人を指さした。」(なお、示された写真中髭の生えている男の写真は被告人福冨のもの一枚)旨を述べ、更に、実際に右両名について見分をした際の印象についても、「被告人福冨についてはまあよく似てるんじゃないかと捜査官に言ったが、二瓶については全くわからないと言った。」旨を述べ、結局、「自己が指さした人物が四三二三車に乗っていたということは、はっきりとは言えない。」旨を供述している。

以上のように、証人樋口の第六回公判調書中の供述部分は、髭の生えていない男に関する部分は全く不鮮明で、その人物を特定することは困難であり、また、髭の生えている男に関する部分も、髭が顔中に生えていたという内容は、被告人福冨の当時の人相(鼻の下の髭のみ)と大きく異なることになるうえ、前記のような同被告人の写真を選び出した経緯及び実見後の印象に照らしても、人物についての記憶は不鮮明と言わざるを得ず、結局、同証人の右供述部分によっても、被告人福冨及び二瓶の四三二三車乗車の事実を認めることはできない。

(三) 証人軽部清八の供述部分(第六回、第七回)

証人軽部清八は、昭和四六年五月当時二瓶が居住していた前記小長谷アパートに居住していた者で、捜査段階におけるコロナ車目撃状況などに関する同証人の供述が二瓶及び被告人福冨の逮捕の資料となったことが窺われる証人であるところ、右軽部の司法警察員松永寅一郎に対する同年一〇月一四日付供述調書中には、「佐々塚が引越しをした五月二三日の午前一〇時ころ、アパートの前に紺色のトヨペットコロナ六四年式が停車していて、その車に佐々塚の引越し荷物を二瓶、須藤が積んでいた。また、その前日の五月二二日午後七時ころ、アパートの前にそのコロナがとまっており、これに佐々塚と二瓶が荷物を積んでいた。」旨を述べた部分があるが、同証人は、第六回及び第七回公判では、「五月二三日の引越の日に、小長谷アパートの前に洋酒のナポレオンのびんのようなチャコールグレーのような色の古い型のコロナがとまっているのを見た。その日は、午前一〇時ころ、車だけを見たもので、昼ごろにはもうその車はおらず、荷物を運び込んでいた者、運転をしていた者は見ていない。前日も同じ車がとまっているのを見たが誰が扱ったかはわからない。」旨を述べ、甚だ不明確な供述にとどまっている。

結局、右証人軽部の公判調書中の供述部分では、そのコロナを使用していた者を特定し得ないだけでなく、そのコロナが四三二三車であるか否かも全く不明である。

なお、OS色素工業株式会社浜田冨美枝作成の「証」と題する書面などによれば、被告人須藤は、右五月二三日に二瓶らの引越しの手伝いのために小長谷アパートに赴いたが、その際自宅の車両が使えなかったため、取引先の前記OS色素の白色のライトバンを借用し、同車を使用して右引越の手伝をしたことが認められ、この点に照らしても、軽部清八の前記捜査段階の供述は信ぴょう性に乏しく、また、公判調書中の供述部分にあるチャコールグレーのような色の古いコロナについても、たとえそのような車両を同証人が目撃したとしても、被告人須藤らとの関連性は認め難い。

(四) その他の証人の供述部分

四三二三車の使用状況に関する前記証人池上昌子(第七二回)、同森下寛(第七二回、第七四回)、同髙久絹代(第七三回)、同神農侑子(第七五回)及び同幡野三男(前同回)の各供述部分については、これらは、結局、昭和四六年五月ころ、前記小長谷アパートの近辺で古い型のコロナらしい車を見かけたことがあるという程度にとどまるもので、右供述中には、「色はツートンカラーで、ブルーバードじゃないかと思う。一ヶ月位の間毎日見た。」(証人池上)、「常に停まり放しだった。」(証人髙久)旨など、前記客観的事実や二瓶の供述とも矛盾する内容も含まれており、これらの証人の各供述部分によって被告人らによる四三二三車の使用状況の裏付けとすることは困難である。

4  被告人らの自白調書の検討

右に述べたとおり、本件窃盗事件に関しては、客観的証拠が乏しく、結局、当裁判所が事実の存否の判断資料として取り調べた前掲の被告人須藤(46・12・2、同12・3、同12・8、同12・9)、同岩渕(46・12・10)、同外狩(46・12・11)及び二瓶(46・11・26、同11・27、いずれも謄本、なお、二瓶の供述調書については、以後謄本の表示を省略する。)の検察官に対する各供述調書並びに前掲二瓶についての第一審公判調書(第二回)及び併合前の被告人外狩についての公判調書(第二回、第三回)中の二瓶の各供述部分が本件の成否を左右する主要な証拠となる。右は、いずれも本件犯行についての自白を内容とするものであるが(以下、自白調書と総称する。)、右の自白内容が被告人らの本件犯行を証明するに足りるものか否かの判断に当たっては、本件においては、右の自白調書に先行して、警察段階における多数の司法警察員に対する供述調書及び被告人ら自らが作成した自供書が存在するので、これらをも併せて検討、吟味する必要がある。以下、まず、右の検討、吟味をしたうえ、当裁判所が事実の存否の判断資料として取り調べた自白調書について、主としてその信用性を検討することにする。

(一) 被告人らの捜査段階における供述の検討

ここでは、当裁判所が事実の存否の判断資料として取り調べたもの及び捜査の経緯の資料として取り調べたものを併せて、被告人らの捜査段階における供述内容を検討する。なお、検討に際しては、検察官の主張する事実に対応する形で検討することにする。

(1) 実行行為当日の状況関係

検察官は、本件窃盗の実行行為当日の状況について、大要、「昭和四六年五月七日夜、被告人桐野、同須藤、同岩渕、同外狩、二瓶及び佐藤は、被告人岩渕方に集まり、五月五日の下見のとき目星をつけた三台のうち自動車一台を盗むことの謀議を遂げ、被告人須藤の運転する自動車にその余の五名が同乗して出発し、同日午後一一時ころ、小金井市本町四丁目五番一―一七付近に至り、被告人外狩が四三二三車の三角窓をドライバーでこじ開けて同車運転席に乗り込み、被告人岩渕及び佐藤が同車の後押しをし、被告人外狩がイグニッション・スイッチ部分の配線を直結結線していわゆる押しかけの方法でエンジンを始動させて同車を窃取し、その際、被告人桐野、同須藤及び二瓶は謀議に従って同車付近で見張りをした。その後、被告人岩渕、同外狩及び佐藤は四三二三車に、被告人桐野、同須藤及び二瓶は右須藤の運転する自動車にそれぞれ分乗して新宿まで帰った。」と主張している。

しかしながら、右の状況に関する被告人らの供述には、次のような問題点がある。

ア 車のドアの開け方に関する被告人外狩の供述が不自然であること

自動車窃盗においては、施錠されている車のドアをキーなしでどのようにして開けるかという点は、重要な事項であるが、前掲証拠、就中、証人倉地孝憲(第一七〇回)の供述部分等によれば、被害車両である四三二三車の運転席側ドアの開け方としては、三角窓の下枠部分にあるドアロックボタンを上方に引き上げてから開ける方法と、ドアロックボタンの下方約六センチメートル付近にあるドア開閉用ハンドル(ドアインサイドハンドル)を操作して開ける方法があることが明らかであるところ、この点に関して、被告人外狩は、「ドライバーで運転席の三角窓をこじ開け、手を差し込んで運転席のドアのガラスを降ろし、降ろした窓から手を入れてドアのロックをはずした。」旨を供述しており(46・12・11検面のほか、同12・2員面、同12・9自供書、同12・10員面も同旨)、右供述によれば、被告人外狩は、三角窓をこじ開けたあと、すぐ間近にあるドアロックボタンを引き上げることもせず、かつ、その下方数センチメートルのところにあるドアの開閉用ハンドルを操作することもせず、わざわざ狭い三角窓の隙間から手を差し込んで、右ハンドルよりも更に二十数センチメートルも下方にある窓ガラス開閉用ハンドルを操作して窓ガラスを降ろしたうえ、ドアの「ロック」をはずしたことになるのであって、右にいう「ロック」がドアロックボタンを指すのかドア開閉用ハンドルを指すのかそもそも不明であるが、いずれにしても、極めて困難で不自然な方法をとったことになる。

しかも、被告人らの供述によると、本件犯行は、行きずりの偶発的犯行ではなく、謀議を経たうえで、被告人外狩及び同須藤において犯行前にわざわざ下見に赴いて古いコロナに当たりをつけたとされているのであるから(外狩46・12・11検面ほか)、窃取を担当する実行者としては、目標とした車両のドアをどのようにして開けるかという点は、最も重大な関心を抱いている事項であって、事前に相応の知識を得て臨むものと想定され、仮りに正確な知識を有していない場合でも、少くとも現場においては、まず簡単にドアを開けることができるドアロックボタンを探すことに意を注ぐはずであり、加えて、本件四三二三車の場合、ドアロックボタンは、こじ開けたとされる三角窓の下枠部分にあって、こじ開ける作業をしている者の目前に容易に見えるし、かつ、被告人外狩の供述によれば、側には懐中電灯を持った佐藤がいたとされているのであるから、同被告人が右ドアロックボタンに気づかずに前記のような困難な方法によったという供述は極めて不自然、不合理と言わざるを得ない。この点からだけでも、被告人外狩の自白の信用性については、大きな疑問を抱かざるを得ない。

なお、被告人外狩以外に、車のドアの具体的開け方について供述している者はいない。

イ 直結の状況、用具に関する被告人外狩の供述が不正確で変遷していること

前掲証拠、就中、証人三村隆の供述部分(第一六九回、第一七〇回)によれば、四三二三車のスイッチ部分の配線は、バッテリー線、イグニッション線、スターター線、アクセサリー線の四本からなっており、右のうちバッテリー線とイグニッション線を結線させたうえで、いわゆる押しかけをするか又は更にスターター線をバッテリー線と接触させるかすれば、キーなしでもエンジンを始動させることが可能であることが明らかなところ、被告人外狩は、本件犯行の際の直結の状況、用具について、46・12・2員面などでは「スイッチ部分のコードを引張って取りはずしたかペンチで切断したかは忘れたが、コードをはずし、合わせて通電させた。」と簡単に述べ、46・12・9自供書では「スイッチの裏の線を三本ペンチで切り、二本をつなぎ合わせた。」とやや具体的になり、更に、46・12・10員面では「岩渕宅から用意した銀色のプライヤーでスイッチ部分の裏の方から配線をはさんで力一杯引き抜き、三本の配線につき一本ずつ先端のビニール部分二〇センチ位をプライヤーでつぶして裸線にしたうえ、その三本を交互に接触させてスイッチランプがつくことを確め、その二本を結び合わせ、もう一本は、ブラブラしたままにした。」と使用した用具をプライヤーと変更し、その図面を作成したうえで、詳細な供述をし、46・12・11検面でも、これをほぼ踏襲した供述をしたのち、翌46・12・12員面では「直結したときには、ニッパーで線を切り、線のコードカバーをむいて結線した。」と再度用具について供述を変更している。

ところで、自動車窃盗の中で、エンジンの始動方法としていわゆる直結による場合には、スイッチ部分の電気系統の配線状況及びその結線方法について事前にある程度の知識と技術を持っていなければ窃取が困難であるところから、真犯人であれば、右の点について具体的に記憶し、かつ正確に供述し得るはずであるが、右のように被告人外狩の供述は、実際には四本存在するスイッチ部分の配線を三本としている点で、前記客観的事実と齟齬しており、結線に使用した用具も、ペンチ、プライヤー、ニッパーと不自然に変遷している。

ウ 押しかけ状況に関する被告人らの供述が一致せず不明確であること

検察官は、エンジンの始動に関して、被告人外狩が四三二三車に乗って被告人岩渕と佐藤がその後押しをしていわゆる押しかけの方法でエンジンを始動させたと主張しているが、この点に関する被告人らの供述を検討すると、押しかけをした場所や後押しをした者について相互に一致しないことなど不明確な点が多い。

第一に、押しかけをした場所についてであるが、被告人外狩は、「車のドアを開けたあと、アパートの前で音がしてはまずいので、その場から皆に後押ししてもらい、約五〇メートル位移動して人家の少ない生垣のあるところまで来て、そこで直結作業をしたのち押しかけをした。」という趣旨の供述をしているが(46・12・1、同12・2、同12・10各員面、同12・9自供書、同12・11検面)、直結前のこのような大きな移動状況について供述している者はほかにはなく、かえって、被告人岩渕(46・12・8、同12・9各員面、同12・10検面)や、同須藤(46・12・2、同12・8各検面、同12・7員面(一))は、当初被害車両が駐車していた地点で直結作業をしてこの地点から押しかけをして発進した趣旨の供述ないし図示をしている。特に、被告人須藤は、昭和四六年一二月一日現場において引当り捜査をした際、被害車両は駐車地点の三差路付近から北方の団地内方面へ発進したように指示している(司法警察員小出英二ほか一名作成の昭和四六年一二月三日付犯行現場確認報告書)。押しかけをした場所の特定は、本件の成否を検討するに当たって、非常に重要であるが、右のように供述が一致せず、かつ、被告人外狩及び同岩渕について現場における引当り捜査をしていないため、結局不明と言わざるを得ないことになる。

なお、被告人外狩は、前述したように、スイッチ部分の配線三本を交互に接触させた旨を供述しているが(46・12・10員面など)、右供述によれば、そもそも押しかけをするまでもなく、バッテリー線とスターター線を直接接触させる方法によって発進させられるのではないかという疑問もある。

次に、後押しをした者についてであるが、被告人外狩は、直結前の移動及びエンジン始動の際の双方について、当初から自己以外の者皆が後押しをした趣旨の供述をしていたが(46・12・1((但し、この調書では佐藤は含まれていない。))、同12・2、同12・10各員面、同12・9自供書)、二瓶は、自分は四三二三車から離れたところにいたので同車を見ていない旨を供述し(46・11・23員面、同11・26検面など)、被告人須藤は、自分は見張りのみであるとし、当初は押しかけの点についても言及せず(46・11・30員面(一)、同12・2検面)、後に、一旦被告人外狩、同岩渕及び佐藤による押しかけを見たと供述しながら(46・12・7員面(一)、但し、同調書中の供述は、被告人外狩も車外に出て押していたとするもので、押しかけの態様としては不自然である。)、最終的には、被告人岩渕と佐藤が押したと思うという推定的な供述に変わっており(46・12・8検面)、被告人岩渕は、自分と佐藤がエンジン始動の際後押しをした旨を述べているものの(46・12・8、同12・9各員面、同12・10検面)、直結前の後押しをしたとは述べていない。そして、被告人外狩も、最終的には直結前の移動及びエンジン始動の際の双方について、「誰が後押ししたかわからない。」と供述を変えている(46・12・11検面)。

後押しという行為は、窃盗の実行行為の中でも重要な行為であるうえ、一定の距離的移動を伴う大きな動作であるから、現場に赴いて、犯行に加担した者であれば、たとえ見張りであっても、当然印象に残りやすく、記憶も比較的正確であって然るべきであるが、右にみたように、被告人らの供述は、区々で、かつ不自然な変遷もみられ、これらの供述によって誰が後押しをしたかを確定することは困難である。

エ 佐藤憲一の加担に関する被告人らの供述の変遷が不自然であること

検察官の主張によれば、本件窃盗には佐藤憲一も加担しており、現場においては押しかけの際後押しをしたとされているが、同人の加担に関する被告人らの供述には、不自然な変遷がみられる。

即ち、本件窃盗について、最初に自白供述をした二瓶は、佐藤については何ら言及しないまま、昭和四六年一一月二七日起訴され、その後相当たった一二月八日になってから同人の現場加担を供述し、また、被告人須藤は、最初の自白では同人の名を出さず、その後、一旦、同人が現場に先着していて自転車に乗っていたと述べ(46・11・30員面(一)、同12・2検面)、更に一二月七日には、同人も一緒に現場に車で行き、そこで自転車に乗って見張りをしたり、押しかけの際に後押しに加担した趣旨の供述をしている(46・12・7員面(一)、同12・8検面)。なお、右佐藤が自転車に乗って見張りをしていたと供述しているのは同被告人のみである。そして、被告人外狩も、最初に自白をした際には、佐藤を除く五名による犯行と供述していたが(46・12・1員面)、その後一変して、佐藤が被告人岩渕宅から犯行に使用する用具を運んだり、現場において懐中電灯を照らしたり、押しかけの際後押しに加担したりするなど重要な役割を果した旨を供述するに至っている(46・12・2、同12・10各員面、同12・9自供書、同12・11検面)。他方、被告人岩渕は、同年一二月八日に自白したときから、佐藤の加担を述べている(46・12・8、同12・9各員面、同12・10検面)。

なお、佐藤の現場における加担状況に関する右のような被告人らの供述の変遷に対応して、本件当夜同人が被告人岩渕宅に集まった模様についての被告人らの供述も大きく変遷している。

本件のように謀議に基づく犯行とされている場合においては、犯行に誰が加担したかという点は相当重要な事項であり、およそ、記憶の欠落ということは考えにくいところであるが、被告人らの佐藤に関する供述は、右にみたように、複数の者が、当初はこれに言及していないのに後にその加担を認めるという供述をし、時期的にみても、一二月七日、八日ころに内容が同様のものとなっており、まことに不自然な変遷となっている。

オ 現場の状況に関する二瓶、被告人須藤及び同岩渕の各供述が不正確かつ不自然であること

二瓶、被告人須藤及び同岩渕は、本件犯行現場に赴いて見張り又は車の後押しをしたとされており、それぞれこれを認める供述をしているのであるから、現場の客観的状況に関して、詳細はともかく、その概要程度は説明し得ると考えられるが、この点に関する右の者らの各供述は、次のように、極めて不正確かつ不自然である。

まず、二瓶は、46・11・22員面(三)において、現場の状況を説明して図面を作成しているが、右図面は、道路の形状、進入経路などが現場のどこを示すのか著しく不鮮明であり、現場で相当時間見張りをしていた者が作成したものとは思えないような内容となっている。なお、二瓶は、各自白調書中においても、実況見分の際の指示(司法警察員西海喜一作成の同月二六日付実況見分調書)においても、現場では被害車両から相当離れた位置で見張りをしていたので、同車を見ていない旨を述べているが、後に述べる被告人須藤や同岩渕の供述調書や現場における指示によれば、二瓶も同車を十分に現認し得る位置で見張をしていたとされており、この点に関する二瓶の供述ないし指示も他の被告人と一致しない。

また、被告人須藤は、46・11・30員面(一)において、現場の状況を説明して図面を作成しているが、右図面は、道路の形状はともかくとして、四三二三車が駐車してあった場所(即ち犯行現場)を団地の南側(神社の北側)の道路上としており、明らかに客観的事実と異なる。もっとも、同被告人は、翌一二月一日の現場における引当り捜査の際には、右車両が駐車してあった場所を前記本町住宅C二号棟の北側の道路上と指示しているが、右指示した地点も、被害者伊藤照子が駐車していたC一号棟の北側の三差路付近道路上よりもかなり西側であったためか、のちに、右のC一号棟の北側三差路付近に訂正したとされている(司法警察員小出英二ほか一名作成の46・12・3犯行現場確認状況報告書参照)。しかしながら、46・12・2検面及び同12・7員面(一)においては、右訂正前のC一号棟の北側の三差路よりも西側であるとの前提で供述ないし図示をしていることが窺われる。仮りに、駐車地点が右三差路の西側寄りであったとすると、被害者伊藤照子によれば、被害車両は、同交差点付近で車両の前部を西側に向けて駐車してあったとされているので(伊藤照子の司法警察員に対する供述調書謄本、司法警察員北岡均作成の昭和四六年一一月一日付実況見分調書)、押しかけをして同交差点に戻ってくるのは非常に困難となり、被告人須藤自身の供述自体とも矛盾することになる。

そして、被告人岩渕も、46・12・8員面において、現場の状況を説明して図面を作成しているが、右図面は、三差路付近の記載はあるものの、極めて大ざっぱで、現場で数十メートルにわたり押しかけをした者が作成したものとは思い難い内容となっている。同図面によれば、被害車両は車両の前部を東向きにして駐車してあったとされ、かつ、三差路の西側寄りから三差路北側方向へ押しかけされたとされているので、前記伊藤照子の指摘する状況とは異なるものとなっている。

カ 現場離脱状況及び合流状況に関する被告人らの供述が区々で一致しないこと

検察官の主張によれば、被告人らは、現場から四三二三車には被告人外狩、同岩渕及び佐藤が、被告人須藤の運転する車には被告人桐野及び二瓶が分乗して新宿へ向ったとされているが、犯行現場をどのように離脱し、どの地点で合流したのかという当然体験したはずの点について、被告人らの供述は、全く区々である。

即ち、まず、二瓶の供述は、変遷が甚しく、「現場で須藤車のところヘコロナが来た。」旨(46・11・22員面(三))を述べたり、「須藤車が五〇〇メートル位走ったところで外狩運転の車が来た。」旨(46・11・23員面)を述べたりしたのち、「須藤車がもと来た方に戻り、五日市街道へ出て間もなく外狩運転の車が来た。」(46・11・26検面)と述べ、更に「須藤車は団地の中へ入って行ったが、盗んだ車を見失った。五日市街道のそばで須藤が一旦降りたが、付近にコロナがいたらしい。」(46・12・5自供書)、「須藤車は車を盗んだ方向に走り、団地内を通ったが、外狩運転の車を見たのは団地内を走っているとき。はっきり見たのは、五日市街道に出てから。」(46・12・8員面)と供述を変えている。二瓶の供述は、変遷が甚しい点で不自然であるほか、最終的には、現場から団地内を通って離脱したとする点と、五日市街道付近で合流したとする点で他の被告人の供述と著しく異なっている。

次に、被告人須藤は、おおむね、「須藤車は団地に入って来た道を出て行き、外狩の運転する車は一旦これとは別の方向へ行ったあと現場からほど近い地点で合流した。」旨を述べている(46・11・30員面(一)、同12・2検面、同12・7員面(一))。

他方、被告人外狩は、「現場においてコロナのところへ須藤車が来てから外狩がコロナを運転して先行した。」旨を述べている(46・12・1員面、同12・2員面、同12・9自供書、同12・10員面)。

なお、右の二瓶、被告人須藤及び同外狩の各供述では、おおむね外狩車には佐藤と被告人岩渕が乗車し、須藤車には二瓶及び被告人桐野が乗車したとされているが、被告人岩渕は、「コロナには、現場では被告人外狩のほか、二瓶と佐藤が乗車し、その後約一〇分位離れたところ(裏通り)で合流したあと、岩渕のみが外狩の運転するコロナに乗りかえ、他の四人は須藤車で帰った。」旨を述べ(46・12・8、同12・9各員面、同12・10検面)、他の者の供述と異なる供述となっている。

現場に赴いて犯行に加担し、現場から二台の車に分乗して帰ったという単純な事項について、被告人らの供述が右のように区々であることは、極めて不自然である。

キ 当日夜被告人岩渕宅を出発した時刻、犯行現場までの往路の道順などに関する被告人らの供述が区々でかつ変遷していること

検察官主張によれば、当夜、被告人らは、被告人岩渕宅へ集まり、一緒に被告人須藤の運転するフローリアンで現場まで赴いたとされているのであるから、いつごろ被告人岩渕宅を出発し、どのような道を通って、いつごろ現場へ着いたかという点については、正確に一致はしなくても、ある程度同旨の供述がなされてもよさそうであるが、以下のように被告人らの供述は区々でかつ不自然に変遷している。

第一に、出発時刻及び現場到着時刻については、まず、二瓶は、当初「午後九時すぎ出発」(46・11・22員面(三)、同11・23員面)と供述していたが、後に「午後九時すぎか九時半ころ出発」と述べ(同11・26検面)、更に「午後一〇時ころ」(46・12・5自供書)と述べて、出発時刻が次第に遅く変って来ている。なお、到着時刻は「午後一一時ころ」と述べている(46・11・23員面、同11・26検面)。

次いで、被告人須藤は、「出発時刻は午後一〇時ころで、到着時刻は翌五月八日午前零時三〇分ころないし出発後二時間後位」と述べ(46・11・30員面(一)、同12・2検面)、到着時刻が他の被告人らの供述に比べ遅くなっている。

また、被告人外狩は、当初「午後一〇時ころ出発した。」旨(46・12・1員面)を述べ、一旦「フジテレビで午後一〇時五六分まで放送していたゴールデン洋画劇場(大いなる決闘)を見終ってから午後一一時ころ出発し、午後一一時三、四十分ころ到着した。」(46・12・2員面)と根拠をあげて供述したにもかかわらず、その後、「午後一〇時三〇分ころ、映画の途中で出発した。」(46・12・9自供書)と供述を変え、以後「午後一〇時三〇分ころ出発し、午後一一時ころ到着した。」旨(46・12・10員面、同12・11検面)を述べており、不自然な変遷をしている。

なお、被告人岩渕は、「午後一〇時ころ出発」、「午後一一時ころ到着」と供述しているが(46・12・8員面、同12・9員面、同12・10検面)、「途中で車を停めて、犯行の打合せをした。」と述べている点が他の被告人らの供述と異なる。

第二に、往路の道順については、被告人らごとに若干の変遷を経ていて供述が確定的ではないが、二瓶は、新青梅街道を通った旨を述べるなど(46・11・22員面(三)、司法警察員西海喜一作成の同11・26実況見分調書)おおむね北寄りのコースであるとし、これに対し、被告人須藤は、井ノ頭通りを通ったと述べるなど(46・11・30員面(一)、司法警察員小出英二ほか一名作成の同12・3現場確認状況報告書)おおむね南寄りのコースであるとし、他方、被告人外狩は、青梅街道、五日市街道を通ったと述べるなどおおむね右両名の中間のコースである旨を供述している(46・12・1員面、同12・2員面、同12・10員面等)。

ク 現場からの帰路、四三二三車の行方、倉本某の待機などに関する被告人らの供述が一致していないこと

検察官は、単に本件犯行後、被告人らは、新宿まで帰ったとしているが、この点に関する被告人らの供述、特に四三二三車の行方に関する供述は、一様ではない。

即ち、被告人外狩は、当初、「皆で新宿まで帰り、コロナを早大理工学部付近にとめたあと、被告人須藤に自宅まで送ってもらった。」旨を述べていたが(46・12・1、同12・2各員面)、その後、「犯行当日、岩渕宅には、桐野、須藤、岩渕、外狩、二瓶、佐藤のほかに倉本も集まっており、同人には岩渕宅に残っていて盗んで来た車を修理に持って行くように頼み、他の六人で現場へ行ってコロナを盗み、同車を外狩が運転してこれに岩渕、佐藤を乗せ、須藤車には桐野、二瓶が乗車して新宿付近まで一緒に来た。途中須藤が岩渕宅に待っている倉本のところへ連絡に行き、外狩は、一旦新宿区役所前まで行って岩渕を降ろしたあと、佐藤を乗せたまま岩渕宅へ行くと、倉本と須藤車が待っており、そこでコロナの運転を倉本に変わり、大久保通りまで来て、外狩はコロナを降りて『淵』へ行った。一緒だった須藤車は桐野、二瓶を乗せてどこかへ行き、コロナは倉本が佐藤を乗せてどこかへ行った。倉本に車を渡したのは、エンジンキー部分を修理してもらうためだった。」と、帰路や四三二三車の行方などについて供述を大きく変え(46・12・10員面)、これを46・12・11検面でも維持している。

右の被告人外狩の供述は、四三二三車の行方や修理状況にも関連する重要な供述と考えられるが、同被告人以外の者の供述をみると、二瓶、被告人須藤及び同岩渕は、細部は異なるが、いずれも四三二三車とは途中で別れた旨の供述をしており、倉本が車を修理に持って行くために被告人岩渕宅に待機していたかどうかという重要な点については何ら触れていない。

結局、四三二三車が当夜どこへ行ったのか、修理はどうしたのかという重要な点について、被告人らの供述では事実を確定することができず、謀議に基づく窃盗としては極めて不自然な結果となっている。

(2) 本件犯行の動機及び謀議・下見状況関係

検察官は、本件窃盗事件の動機、謀議・下見状況について、大要、「被告人らは、日大闘争の過程で知り合い、ノンセクトの連絡情宣紙『連合戦線』を発行する『十月社』、あるいは中国物産販売業『楼蘭公司』、更には『学習会』などの場で親交を保っていたものであるが、五月五日ころの夜、被告人岩渕方において学習会を開いた際、被告人桐野、同須藤、同岩渕、同外狩及び二瓶は、被告人桐野の提案により、『楼蘭公司』の仕事用と『十月社』の三里塚闘争参加用に自動車一台を盗むことを謀議し、直ちに、被告人須藤、同外狩が小金井市まで下見に行き、中古の大衆車三台に目星をつけて帰った。」と主張している。

しかしながら、右の点に関する被告人らの供述には、次のような問題点がある。

ア 動機に関する被告人らの供述が不自然に変遷していること

検察官は、本件窃盗の動機を「楼蘭公司の仕事用と十月社の三里塚闘争用」と主張しているが、この点に関する被告人らの供述は、次のように変遷している。

即ち、二瓶は、本件窃盗の起訴前は、「楼蘭公司のため」(46・11・22員面(一)、同11・26検面)と供述していたが、起訴後には、「三里塚闘争と楼蘭公司のため」(46・12・5自供書)とか、「三里塚闘争で使うのが大きな目的」(46・12・8員面(二))と供述を変更し、また、被告人須藤も、当初は「楼蘭公司のため」(46・11・29員面(二)・(三)、同11・30員面(一)、同12・2検面)と供述していたが、その後、「本当は三里塚闘争のため」(46・12・7員面(一))と述べたり、「楼蘭公司のためと十月社が三里塚闘争に参加するため」(46・12・8検面)と述べて、供述を変更し、更に、被告人外狩も、当初「楼蘭公司のため」(46・11・26員面)と供述していたが、のちに、「桐野が十月社で使うため」(46・12・5員面)と述べたり、「楼蘭公司のためと言っていたが、十月社でも使うと思った。」(46・12・11検面)と述べて、同様に供述を変更している。なお、最後に自白した被告人岩渕は、「私は楼蘭公司のためと思っていたが、桐野らは十月社の三里塚闘争のためと言っていた。」(46・12・8員面)とか、「桐野が楼蘭公司や十月社の三里塚闘争のためと言っていた。」(46・12・10検面)と供述している。

右のように、被告人らの供述は、いずれも、初期の段階では理由、経緯をあげて「楼蘭公司のため」としていたのに、一二月五日ころ以降、時期を同じくして、司法警察員の取調べにおいては「三里塚闘争のため」とし、他方検察官の取調べにおいては「両方のため」としている。

ところで、本件は複数の者による謀議に基づく犯行とされているので、これに加担する者一人一人にとって、何のために車を盗むのかという点は、重要な事項であって、それなりの動機とその意思一致があって然るべきであるが、右にみたように、被告人らの供述の場合、この点について極めて不自然な変遷をしている。そして、右の変遷が、内容的には、三里塚闘争関係へと変わり、時期的にも、後記総監公舎事件関係の警察での取調べが開始されたころであることなどの事情に照らすと、警察における取調べの過程で誘導があったのではないかとの疑問を抱かざるを得ない。

なお、変遷後の「十月社の三里塚闘争のため」という動機であるが、前記被告人らの生活状況等に関する事実に照らしても、本件当時、被告人桐野が三里塚闘争の支援活動をしていたほかは、他の被告人らが積極的に三里塚闘争に参加していたとはみられず、しかも、さして関連のない他の被告人らが「十月社のため」に車の窃盗を行なうか否かも疑問である。また、「楼蘭公司のため」という動機についても、その営業活動に車を使用するとなれば、人目にもつきやすく、果して、その目的のために窃盗を行なうかも疑問である。

イ 謀議の状況に関する被告人らの供述が区々であること

検察官は、五月五日ころの夜、被告人桐野、同須藤、同岩渕、同外狩及び二瓶の五名(以下、この項で単に五名という。)が被告人岩渕宅に集まって謀議し、直ちに、被告人須藤と同外狩が下見に行ったとしているが、謀議の状況、特に日時、出席者に関する被告人らの供述は一様ではない。

即ち、二瓶は、本件窃盗の起訴前には、「五月の初めころ五人が集まった。」旨を供述していたが(46・11・23員面、同11・26検面)、右起訴後には、「五月五日水曜日に五名と佐藤、国分葉子らが集まった。」と供述し(46・12・8員面)、被告人須藤も、当初、「五月五日に五名が集まった。」旨を供述していたが(46・11・29員面(三)、同12・2検面)、後に、「五月五日、五名のほかに国分葉子がいた。」旨(46・12・7員面(一)、同12・8検面)を供述しているのに対し、被告人外狩は、若干の変遷を経たのち、理由をあげて「盗む話をしたのは五月四日で、その日には五名のほかに倉本も来ていて車の修理先の話をした。また須藤と翌日下見することを決めた。翌五日には五名のほかに佐藤らが集まり、須藤と二人で下見に行った。」旨を供述している(46・12・9自供書、同12・10員面、同12・11検面)。なお、被告人岩渕は、「五月五日には盗む話はあったが自分は反対だった。佐藤についてはわからない。」と述べている(46・12・8員面、同12・9員面、同12・10検面)。

右のように、被告人らの供述では謀議の日時、出席者などがはっきりしない。また、このほか、謀議における積極的発言者についても、動機の変遷に伴い、被告人外狩から被告人桐野へと移ってゆくような供述となっている。

ウ 下見の状況に関する被告人須藤及び同外狩の供述が一致していないこと

下見の際、誰が具体的に対象車両を探したかという点について、被告人須藤は、「自分は車から降りていない。」(46・11・29員面(三)、同12・2検面)と供述しているのに対し、被告人外狩は、当初、反対に「須藤一人が降りて行った。」(46・11・27員面)と述べ、のちに、「二人で一緒に降りた。」(46・12・9自供書、同12・10員面、同12・11検面)と述べており、両名の供述が矛盾している。また、下見を決めた日についても、被告人須藤が「五月五日当日」と述べているのに対し、被告人外狩は「同月四日」と述べており、一致していない。

なお、右両名の供述では、どの地点でどのような車について具体的に下見したのかなど下見の具体的状況が明らかでない。

(3) 四三二三車の使用状況及び追突事故の状況関係

検察官は、四三二三車の使用状況及び追突事故の状況について、「窃取後、四三二三車は、五月二七日麹町二丁目交差点で被告人福冨が二瓶を乗せて運転中三重追突事故に遭ってその場に放置されるまで、楼蘭公司あるいは十月社で使われたほか、主に被告人福冨の使用するところであった。」と主張している(論告要旨一一頁)。

しかしながら、右の状況に関する被告人らの供述には、次のような問題点がある。

ア 四三二三車の使用状況、保管状況に関する被告人らの供述に具体性がなく、これに関する客観的裏付証拠がないこと

検察官の主張によれば、被告人らは、一定の目的をもって四三二三車を窃取し、これを約二〇日間使用、保管していたはずであるから、被告人らにおいて、その使用状況、保管状況につき、具体的な供述があって然るべきであるが、被告人らの供述は甚だ不鮮明であって、例えば、二瓶は、「日頃は外狩、須藤が乗っており、ときどき福冨が乗っていた。」と述べ(46・11・26検面)、被告人須藤は、「外狩が持って行って昼は楼蘭公司の仕事に使っていたとのこと。後に福冨が使っていた。」(46・11・30員面(一))とか「外狩が運転して桐野を乗せて三里塚へ行ったと聞いた。」(46・12・7員面(一)、同12・8検面、同12・9検面)と伝聞を述べ、被告人外狩は、「五月一二日ころ一度だけコロナに乗ったことがある。同車は、桐野らが十月社の活動に使っていたと思う。」(46・12・5員面、同12・10員面)と推測的な供述をし、被告人岩渕は「一度楼蘭公司で使用したが、あと十月社で使っていたと思う。」(46・12・8員面、同12・10検面)と述べるにとどまっており、いずれも、「楼蘭公司の仕事用」とか「三里塚闘争参加用」というような目的に沿った具体的な使用状況について供述している者はいない。また、保管状況については、二瓶が「海城高校か早大の理工学部付近に置くことにし、鍵は岩渕宅の小ひきだしの中に入れておくことにした。」(46・12・8員面)と供述しているだけで、他にはこの点について供述をしている者はいない。他方、前記被告人須藤のように、後に被告人福冨が使用していた旨を述べる者もいるが、結局、保管場所については、いずれの供述によってもはっきりしない。

なお、被告人らが約二〇日間にわたり四三二三車を使用、保管していたとされているにも拘らず、この点に関する客観的裏付証拠は得られていない(証人軽部らの供述が裏付とならないことは前述したとおりである。)。

イ 四三二三車の修理状況に関する被告人らの供述が不鮮明で、これに関する客観的裏付証拠もないこと

四三二三車は、客観的には前記認定のとおり、運転席前部のキーボックスの部分が作り変えられており、これがどのようにして修理されたかという点は窃盗に加担した者のうち誰かが当然知っているはずであるが、この点に関する被告人らの供述をみると、二瓶(46・11・23員面、同11・26検面)及び被告人須藤(46・11・30員面(一))は、いずれも、「外狩が修理屋などで直したと聞いた。」と述べているのに対し、被告人外狩は、「倉本が直して車を須藤に渡したと思う。」(46・12・10員面)と述べていて、全く供述が相反しており、結局、この点が不明のままとなっている。

なお、右のキーボックスの部分の修理状況についても、客観的裏付証拠が得られていない。

ウ 五月二七日の追突事故の際四三二三車に乗車していた者に関する被告人らの供述が不自然に変遷していること

前記認定のとおり、同日麹町二丁目交差点で四三二三車が関連する追突事故が発生したこと及び同車に二名の男が乗車していたことは明らかであるところ、前述したとおり、目撃証人のみによっては右二名を特定することが困難であるので、右事故に関する状況、特に乗車していた者に関する被告人らの供述は、本件の成否に関連して重要であるが、この点に関する被告人らの供述は不自然に変遷している。

即ち、二瓶は、本件窃盗の起訴前後を通じて一貫して、しかも理由をあげて「事故当時四三二三車に乗車していたのは福冨と桐野に間違いない。」旨を供述していたが(46・11・19員面、同11・20員面、同11・22検面、同12・5自供書、同12・9員面(一))、後記総監公舎事件自白後の一二月一三日になって「乗車していたのは福冨と自分であった。」と供述を変更し(46・12・13員面(三)のほか、同12・14員面、同12・15検面、同12・16員面、同12・23検面)、また、被告人須藤も、右二瓶と同様、当初、「桐野があごを打った旨を聞いた。」という根拠をあげて「乗車していたのは福冨と桐野である。」と供述していたが(46・11・30員面(一)、同12・3検面)、総監公舎事件自白後の一二月一三日に、「福冨と二瓶が乗車していた。」と供述を変更している(46・12・13員面(一))。なお、被告人外狩は、当初「福冨ほか一名」(46・12・2員面、同12・6員面)と曖昧に述べていたが、その後「福冨と二瓶が乗っていたと聞いた。」旨を述べるに至っている(46・12・9自供書、同12・10員面、同12・11検面)。

右のように、二瓶及び被告人須藤は、いずれも、当初においては理由、根拠をあげて「福冨、桐野」としていたのを、一二月一三日の司法警察員の取調べにおいて、時期を同じくして「福冨、二瓶」と変更しているが、右の供述内容の変更は、右両名の記憶違いによるものとはみられず、また、右両名が意思を通じてこのような供述の変更をする事情も見出せず、警察における取調べの過程で誘導があったのではないかとの疑問を生ずる。なお、右二瓶の供述の変更は、右事故に遭遇した経緯として、「福冨宅で爆弾闘争の話が出て総監公舎へ下見に行く途中の事故であった。」旨の供述に伴うもので、右供述そのものについての疑問点は、後述するとおりである。

エ 四三二三車車内の遺留物に関する二瓶の供述が客観的状況と齟齬すること

前記認定のとおり、追突事故の際、四三二三車の後部座席に白色のポリ容器が遺留されていたが、二瓶は、右ポリ容器について車両後部のトランクの中にあったと供述しており(46・12・13員面(三))、明らかに客観的状況に齟齬する。二瓶は、そのポリ容器について「事故の二、三日前、福冨、須藤が御殿場で盗んで来たもの」と述べているにも拘らず、その置き場所を間違えるのは不自然と言わざるを得ない。

(二) 自白調書の信用性について

以上の被告人らの捜査段階における供述の検討を踏まえて、当裁判所が事実の存否を判断する資料として取り調べた前掲自白調書の信用性について検討する。

(1) 被告人らの自白調書の内容に関する問題点

前記(一)においては、検察官が主張する事実に沿って被告人らの具体的供述内容を検討したが、その内容に関する問題点を要約すると、次の諸点を指摘できる。

ア 供述内容に一貫性がなく、不自然な変遷が多いこと

被告人らの供述内容に変遷が非常に多いことは、既に述べたとおりであるが、特に、問題なのは、例えば、本件窃盗の動機、佐藤の実行行為への加担状況、追突事故の際に四三二三車に乗車していた者などの点に関して、被告人らのうち、複数の者が、内容的にも同一で、時期的にも同時期に、いわば連鎖的に供述を変遷していることである。しかも、これらがいずれも、後記総監公舎事件に関連する方向で変遷している点に不自然な印象を免れない。また、今一つ問題なのは、理由、根拠をあげたり、図面まで書いたりしたうえで自供した内容が、その後変遷する場合があることである。例えば、右の連鎖的変遷で例示した場合も含めて、いわゆる直結作業に使用した用具や当夜の岩渕宅出発時刻に関する被告人外狩の供述などの場合にこの点が指摘できる。これらの変遷は、単に一貫性がないというにとどまらない不自然なもので、捜査、特に警察における捜査の過程で誘導的な取調べが行なわれたのではないかとの疑問を抱かざるを得ない。

イ 供述内容が相互に一致しない場合が非常に多いこと

複数の被疑者が犯行を自供している場合、一部の者に記憶の欠落があったり、細い点について供述が一致しないことはままあり得るが、本件の被告人らの場合、相互に一致しない点が非常に多く、特に犯行現場へ向う道順、途中で停車して相談をした事実の有無、窃取の現場におけるいわゆる押しかけ状況、同じく現場における佐藤や二瓶らの役割、現場からの離脱・合流状況、四三二三車の行方、倉本某の待機の事実の有無、車の使用状況、謀議の状況など、犯行に加わった者であればおおむね一致してもよさそうな事項について、しかも、重要な事項について、被告人らの供述は区々である。したがって、本件犯行の重要な部分について事実を確定し難いことになる。

ウ 真犯人であれば当然説明し得る客観的事実につき、不明瞭な供述やこれと齟齬する供述が相当みられること

真犯人であれば、当然説明し得る事実について、正確な供述がなされているか否かは、供述の信用性を吟味するうえで重要であるが、本件の場合、例えば、窃盗現場の客観的状況、四三二三車の具体的使用・保管状況、同車の修理状況など、犯行に加わった者であれば、具体的な説明があってもよさそうな事項について、被告人らの供述は極めて曖昧である。また、四三二三車のスイッチ部分の配線に関する被告人外狩の供述、同車に遺留されていたポリタンクの位置に関する二瓶の供述などは、明らかに客観的事実と異なる。

エ 供述内容自体に不自然、不合理な点がみられること

本件の場合、四三二三車のドアの開け方に関する被告人外狩の供述は、同車の客観的形状に照らして全く不自然、不合理であるし、その他、本件の動機、佐藤が突然加担した経緯、六名もの多数の者による一台の中古車窃盗への加担など、被告人らの供述を前提にしても、不自然な点がみられる。

オ 自白内容について客観的裏付証拠が欠けていること

本件の特徴の一つは、被告人らの自白があるにも拘らず、これについての客観的裏付証拠が欠けていることである。例えば、四三二三車の使用・保管状況に関する確たる目撃者、同車のスイッチ部分の修理先、倉本なる人物などについて、裏付証拠が得られてない。なお、四三二三車からも被告人らの指紋は検出されていない(二瓶の供述中には、ふきとった旨の供述があるが、追突事故は突発的事故であって、仮りに被告人らが日常的に使用していたとすれば、幾つかその指紋が出てもよさそうである。)。

カ いわゆる秘密の暴露に当たるものがないこと

検察官は、四三二三車のドアの開け方及び直結方法に関する被告人外狩の供述について、これが秘密の暴露に当たると主張しているが、いわゆる秘密の暴露に当たるというためには、それがあらかじめ捜査官の知り得なかった事項で捜査の結果客観的事実であると確認されたものであることを要すると解されるが、右の二点については、前述したとおり、前者は、供述自体不自然、不合理な内容でそのドアの開け方が客観的事実とは確定し難く、後者は、スイッチ部分の配線についての供述が客観的事実と異なるうえ、使用用具も確定し難く、いずれについても、秘密の暴露に当たるとは言い難い。

(2) 被告人らに対する取調べの経緯、方法に関する問題点

本件の被告人らに対する取調べ、特に自白に至る取調べの経緯、方法に関して、次のような問題点がある。

ア 被告人らに対する本件窃盗事件の捜査の端緒が不自然で、客観的証拠についての慎重な検討を欠いたいわゆる見込捜査の疑いがあること

本件は、前記のとおり、総監公舎事件の捜査の過程でたまたま察知した総監公舎付近の四三二三車の交通事故から端緒を得たものであるが、同事件の準捜査本部においては、事故現場が右公舎に近かったところから、事故は同公舎の下見中のものかもしれないとか、事故車両から逃走した者が髭を生やした男であったところから、被告人福冨かもしれないという疑いを抱いて、当時総監公舎事件の捜査の対象になっていた被告人福冨、同須藤及び二瓶らについて同事件とは直接関連のない盗難車である四三二三車の窃盗容疑で捜査に着手したというものであり(証人松永寅一郎第一四九回ないし第一五四回、同宮下昌男第一五五回ないし第一五九回)、客観的証拠があって捜査に着手したものではなく、そして、前述したとおり、参考人である前記三好、樋口、軽部らに対する事情聴取における人物特定方法についても、髭の男の写真を被告人福冨のもの一枚だけを示したり、供述内容も実際よりは断定的なものとしたことが窺われ、右のような事情に照らすと、本件の捜査は、その出発点において客観的証拠について慎重な検討を欠いたいわゆる見込捜査であった疑いがある。

イ 被告人ら逮捕後の捜査においても自白を得ることに重点が置かれたこと

前述したとおり、被告人らを逮捕するまでに得られた客観的証拠が少なかったため、同捜査本部においては、被告人ら逮捕後の捜査においても、自白を得ることに捜査の重点が置かれ、被告人らに対し、連日にわたり相当長時間にわたる取調べが行なわれたことが窺われ(二瓶、被告人須藤に関する留置人出入簿写ほか)、本件窃盗関係だけでも、二瓶については二二通(検面を含む)、被告人須藤については二〇通(前同)、被告人外狩については一六通(前同)もの供述調書が作成されている。

他方、自白内容についての客観的裏付捜査については、前述したとおり十分でなく、窃取の際押しかけをしたとされている被告人外狩や同岩渕について現場における引当り捜査も行なわれていない。なお、被告人らのアリバイに関する主張についても、後記のように慎重な検討を欠いていた疑いがある。

ウ 警察での取調べの過程で誘導などに基づく取調べが行なわれた疑いがあること

被告人らは、警察での取調べの過程で、様々な強制、脅迫あるいは利益誘導が行なわれた結果自白するに至ったと供述しているが、客観的証拠や捜査官の供述によっても、少くとも次のような事情が認められる。

即ち、二瓶については、一一月六日の逮捕以来自白に至る同月二二、二三日までの間、連日にわたり、相当長時間にわたる(同人関係の留置人出入簿写によれば、同月七日から同月二三日までの一七日間のうち午後九時以降に房に入ったのが一二日)取調べが行なわれ、特に、初めて自白をした同月二二日は、入房したのが翌二三日午前零時一五分で、本格的な自供をした翌二三日は、入房したのが午後一一時四〇分であって、相当厳しい取調べが行なわれたことが窺われる。

また、被告人須藤については、一一月一七日の逮捕以来自白に至る同月二九日までの間、やはり連日にわたり、相当長時間にわたる(同被告人関係の留置人出入簿写によれば、同月一八日から同月二九日までの一二日間のうち午後九時以降に房に入ったのが八日)取調べが行なわれ、特に、同月二六日は入房したのが翌二七日午前零時五分で、初めて自白をした同月二九日は、入房したのが午後一一時一〇分であって、時間的にも相当厳しい取調べが行なわれたことが窺われるほか、同被告人の取調べに当たった証人小出英二(第一四三回ないし第一四七回)及び同福島勝三(第一四八回)の供述部分等によると、自白直前の同月二七日及び自白をした同月二九日ころの取調べの際、右小出において二瓶も自供している旨を告げて説得したことが認められ、他の共犯者が自白したことを告げることによる心理的な自白の誘導がなされた疑いもあり、また、同月二九日、三〇日には、捜査主任官の松永寅一郎が異例の取調べを行なったり、同月三〇日付の供述調書中には「老父もいるので何とか早く帰りたい。」という供述部分もあるのであって、このころ、被告人須藤から自白を得るため、様々の説得がなされていたことが窺われる。

次に、被告人外狩についても、同被告人の取調べに当たった証人大塚喜久治の供述部分(第一三四回ほか)によると、右大塚において、取調べに際して共犯者が盗んだと言っていることを告げて説得したことが認められるほか、右大塚が作成した一二月二日付供述調書中に「公舎事件と関係ないとわかったりしたので話した。」旨の供述部分があることなどの事情に照らすと、他の共犯者が自白したことを告げることによる心理的な自白の誘導や、公舎事件とは無関係ということによる自白の誘導があったのではないかとの疑問が生ずる(なお、同被告人に関する同年一一月、一二月ころの留置人出入簿は証拠調請求されていない。)。

更に、被告人岩渕についても、同被告人の取調べに当たった証人髙橋充(第一三六回ないし第一三八回)及び同矢澤俊典(第一四一回)の供述部分等によると、同被告人が初めて犯行を認めるような自供書を書いた一二月七日の取調べに際して、右髙橋において、同被告人に被告人外狩(一二月四日付)及び二瓶(同月五日付)の各自供書を読ませたうえ自白を説得し、自供書を書かせるに至ったことが認められ、誘導に基づく取調べが行なわれたことが明らかである(被告人岩渕に関しても、同年一一月、一二月ころの留置人出入簿は証拠調請求されていない。)。

なお、その後の被告人らに対する取調べにおいても、前記(1)アで述べたとおり、連鎖的供述の変遷がみられるように、誘導的な取調べが行なわれたのではないかとの疑いがある。

エ 被告人らに対する取調べの大半は司法警察員が行ない、そこで得られた自白が検察官の取調べなどでも維持、踏襲されたとみられること

本件の場合、被告人らに対する取調べの大半は司法警察員が行ない、例えば、各被告人について前述したように多数の供述調書が存在するが、本件窃盗事件に関する検面調書は、勾留(期間延長)請求などの際の否認調書を除くと、実質的なものは、二瓶が二通(46・11・26、同11・27、但し同11・27は起訴後のもの)、被告人須藤が四通(46・12・2、同12・3、同12・3、同12・9)、被告人外狩が一通(46・12・11)、被告人岩渕が一通(46・12・10)のみであり、その内容も、既に検討したように、警察段階における自白を被告人らにおいて維持、踏襲したとみられるものである。しかも、本件窃盗事件の主任検察官(山本達雄検事)は、右二瓶の二〇日間の勾留期間満了日近くになって、本件を担当することになり、一人で右四名のほか被告人福冨、同桐野も含めた被疑者の捜査に携るようになったことが認められ(証人山本達雄、第一六三回ないし第一六八回)、関係資料の十分な検討が困難な状況にあったことが窺われる。

また、前記二瓶についての第一審の第二回(昭和四七年三月六日)公判調書及び併合前の被告人外狩についての第二回(同年三月二一日)、第三回(同年四月一一日)各公判調書中にも、二瓶の本件犯行を認める趣旨の各供述部分があるが、関係証拠によれば、二瓶は、昭和四七年一月五日に爆取違反により起訴されたのちも、同年三月八日に保釈になるまで、警察署(警視庁麹町警察署)に留置されて、関連事項について事情聴取を受けたり、その他いわゆる面倒見を受けていたこと、起訴後、自己の第一審について、他の被告人らとは別に単独で審理にのぞむことにし、そこで執行猶予付の判決を受けられるのではないかとの期待を抱いていたこと、同年四月五日右第一審で実刑判決の宣告を受けて非常に気持が動揺したこと、なお、右判決宣告直前に、家族や当時の担当弁護人に自分は本件をやっていない旨を述べて相談をもちかけたりしたことなどの事情が窺われ、右のような事情に照らすと、前記自己の第一審の第二回及び被告人外狩についての第二回各公判調書中の二瓶の本件犯行を認める趣旨の各供述部分は、自己の第一審判決を前にして、捜査段階における自白を結局維持、踏襲したものとみられ、また、被告人外狩についての第三回公判調書中の供述部分は、内容的には半ば犯行を認めながらも半ばこれを否認するかのような極めて不明瞭なものであって、自己の第一審判決を受けた直後、気持の動揺する中で、右のような一部それまでの自白を維持し、一部はこれを否認するかのような供述となったものとみられる。

(3) 当裁判所が事実の存否の判断資料として取り調べた自白調書の信用性について

当裁判所が本件窃盗事件の事実の存否の判断資料として取り調べた前記被告人らの検察官に対する供述調書及び公判調書中の供述部分の信用性については、先に検討したとおり、いずれもこれに先行する警察段階における多数の供述調書や自供書が存在し、これらについては、右の検討のように、その内容に関して幾多の問題点があるばかりでなく、被告人らに対する取調べの経緯、方法に関しても問題点が多く、その自白内容についての信用性に重大な疑問があるところであり、結局、これらを維持、踏襲したとみられる前記の被告人らの検察官に対する供述調書及び公判調書中の供述部分の中の自白についても、やはりその信用性に乏しいと言わなければならない。

5  いわゆるアリバイ関係について

(一) 弁護人らの主張

弁護人らは、本件窃盗事件に関して、次のようないわゆるアリバイ事実の存在を主張しており、これに関して、それぞれ以下のような証拠がある。

(1) 昭和四六年五月五日(検察官主張による謀議、下見の日)関係

被告人須藤は、同月三日から名古屋、京都方面に旅行に出かけ、同月四日には京都市内で友人の穂積文子らと会い、同日夜は同市内の妙顕寺に一泊して、翌五日午後三時ころ国鉄京都駅から新幹線に乗車して、同日午後八時前後に東京駅に着き、そこから被告人岩渕宅に電話をして当日開かれていた学習会を欠席する旨伝え、そのまま帰宅した。

これに沿う証拠としては、被告人須藤の供述のほか、証人須藤由太郎(第一七九回、第一八二回)、同福冨エミ子(第一八〇回)及び同中尾葉子(第一七六回)の各供述部分等がある。

(2) 同年五月七日(検察官主張による本件犯行実行日)関係

ア 被告人須藤は、同日、いつものように実家「美田合成」のプラスチック加工の業務に従事し、特にこの日は新規の作業であるポリカーボネイトの加工を試みたが、不慣れのため作業に長時間を要して夜遅くまでかかり、作業終了後はそのまま自宅で就寝した。

これに沿う証拠としては、被告人須藤の供述のほか、証人須藤由太郎(第一七九回、第一八二回)の供述部分、「美田合成」帳簿一冊等がある。

イ 被告人岩渕は、同日午後六時ころから午後一二時すぎころまで、開店早々のバー「淵」において妻和恵とともに営業に従事しており、その間、同店を訪れた客である森川健一、新藤孝衛、梅原正紀、中沢教輔、羽永義雄その他に応対していた。

ウ 被告人外狩は、この日被告人岩渕宅にいたところ、バー「淵」に映画監督である前記新藤孝衛が来店したことから被告人岩渕の連絡により、同日午後九時ころ同店に赴き、そこで右新藤と映画製作のスタッフとしての採用の件について面談したあと、同店に同日午後一二時すぎころまでいて、その後、前記森川、梅原、中沢らと同店を出て、うち右森川とともに同人宅付近のスナック「テラ」に行った。

右イ、ウの点に沿う証拠としては、被告人岩渕及び同外狩の各供述(証人としての供述を含む)のほか、証人中沢教輔(第一七三回)、同羽永光利こと羽永義雄(前同回)、同新藤孝衛(第一七四回)、同港雄一こと小平貞雄(第一七八回)、同中尾葉子(第一七六回)及び同岩渕和恵(第一八四回)の各供述部分、同森川健一の当公判廷(第一九七回)の供述、梅原正紀の47・1・12検面及び46・12・7員面、バー「淵」の売上伝票(同号の五)、日本ヘラルド映画株式会社宣伝部高橋渡作成の「証明書」と題する書面、同社商業帳簿抄本、並びに小原豊雲展のポスター及びチラシ等がある。

(二) 右主張についての判断

右のような弁護人らの主張について、前記各証拠等を検討すると、少くとも次の点が指摘できる。

弁護人らの主張のうち、五月七日に関する被告人らのいわゆるアリバイ事実の存否いかんは、本件の成立を根本的にゆるがすものであって重要であるが、同日夜、被告人岩渕及び同外狩がバー「淵」に行き、被告人岩渕においては同店を訪れた前記の客の相手をし、同外狩においては前記新藤と面談するなどし、いずれも同夜午後一二時すぎまで同店にいたという点については、前記のとおり知人とは言え数名の第三者による裏付け供述があり、しかも、これらの供述は、それぞれ具体性があり、かつ相互に一致しているうえ、各供述に沿うバー「淵」の伝票(五月七日分)等の物的証拠も存在しており、その供述内容には相当程度の信ぴょう性が認められるところ、他面、これを覆すような客観的証拠はなく、検察官のこの点に関する反論を考慮しても、前記各証拠が被告人らのいわゆるアリバイ工作に基づくものとは、みられず、以上の点に照らすと、少くとも、五月七日夜本件犯行が行なわれたとされる時刻ころ被告人岩渕及び同外狩が右バー「淵」店内にいた可能性は否定し難いところと言わざるを得ない。なお、被告人外狩は、本件犯行当夜の帰宅状況などに関して、当初、「犯行後、新宿まで皆と一緒に帰り、その後須藤に自宅まで送ってもらった。」旨を供述していたのに(46・12・1、同12・2各員面)、その後、「新宿まで皆と一緒に帰って来たのち、自分はバー『淵』へ行った。」旨を供述するに至っているが(46・12・9自供書、同12・10員面、同12・11検面)、右のように同被告人の供述が変ったのは、捜査官側においても、同夜同被告人が右『淵』にいたということを無視し得なくなったためではないかと窺われる。

以上のように、本件犯行に際して被害車両の窃取を直接担当したとされる被告人外狩や右車両の後押しをしたとされる被告人岩渕について、本件犯行当夜のアリバイが成立する余地があるのであって、この点からしても、被告人らにおいて本件自動車窃盗を行なったのか否かについては、重大な疑問があると言える。

6  本件窃盗事件の結論

以上、本件窃盗事件については、これに関して当裁判所が取り調べた全証拠を検討しても、被告人桐野、同須藤、同岩渕及び同外狩らが本件窃盗を犯したことを証明するに足る証拠はなく、かえって、被告人らの犯行とみるには疑問を抱かせるような消極的証拠もあり、いずれにしても、本件公訴事実については犯罪の証明がないことになる。

第三被告人福冨、同桐野、同須藤及び同岩渕に対する爆発物取締罰則違反被告事件(以下、単に爆取事件という。)

一  公訴事実

本件公訴事実は、「被告人福冨、同桐野、同須藤及び同岩渕は、二瓶一雄及び佐藤憲一と共謀のうえ、治安を妨げ、かつ、人の身体・財産を害する目的をもって、昭和四六年八月七日午前一時五七分ころ、東京都千代田区一番町二三番地所在の警視総監公舎玄関脇に黒色火薬を使用した時限装置付手製爆弾を装置し、もって、爆発物を使用した。」というにある。

二  当裁判所の判断

1  客観的事実

前掲第一、二1(一)・(三)の各証拠等によれば、本件爆取事件に関して、次の各事実を認定することができる。

(一) 被告人らの本件爆取事件当時の生活状況等

被告人らの本件爆取事件当時の生活状況等に関しては、前記第二、二1(一)の事実をここに引用するほか、次の各事実が認められる。

(1) 被告人桐野、同岩渕、外狩及び二瓶らによる前記「楼蘭公司」の営業活動は、次第に不活発になり、昭和四六年七月ころには、ほとんど消滅に近い状態となり、また、被告人岩渕宅で水曜日に断続的に行なわれていた「学習会」も、同月半ばころで発表者も一巡し、一応終息していたこと

(2) 一方、被告人桐野は、前記「十月社」ないし「連合戦線」誌関係で知り合った者とともに、いわゆる三里塚闘争の支援活動を強め、同年六月下旬ないし七月初めころには佐藤らが三里塚の現地に常駐するようになり、また、七月中旬ころ「十月社」に翌八月中旬三里塚の現地で開催予定の「幻野祭」の東京事務局が置かれ、二瓶がその連絡役などをするようになったこと

(3) 他方、被告人岩渕は、同年四月に開店した前記バー「淵」の営業や雑誌編集などの仕事を続け、外狩は、同年五月中旬から、新藤孝衛らが行なう映画撮影の仕事に従事するようになったこと

(二) 総監公舎爆破未遂事件発生状況

(1) 昭和四六年八月七日午前一時五七分ころ、東京都千代田区一番町二三番地所在の警視総監公舎に一人の若い男が侵入し、同公舎建物南西角にある敷石付近に時限装置付手製爆弾を置いて仕掛けたこと

(2) その直後、同夜右公舎の建物内で宿直勤務についていた警視庁総務部司法巡査関昭夫が、右の若い男を発見し、同公舎西側の前庭内で一旦同人を捕えかけたが、振り切られ、同人は、同公舎前付近に待機していた乗用車で逃走したこと

(三) 時限装置付手製爆弾の形状及び性能等

(1) 右時限装置付手製爆弾は、家庭用タイムスイッチ、乾電池、表示灯及び双投開閉器(スナップスイッチ)などからなるいわゆる時限付電源閉路装置とそれぞれ火薬が充てんされたガラスみがき剤のグラスター缶及び油絵具用筆洗缶の二つの金属容器を組合せたもので、右二つの金属製容器には、前者には一・三ボトル用のガスヒーター、後者には二・五ボトル用のガスヒーターを装置した手製雷管がそれぞれ内蔵されており、各ガスヒーターからはそれぞれ缶外に二本のビニールコードが引き出され、前記時限付電源閉路装置と並列で結線されていたこと

(2) 右表示灯も二つの金属製容器と電源とは並列に結線されており、途中が断線されていない限り、表示灯の豆電球が点灯すれば、即前記二つのガスヒーターに通電する構造となっており、前記二つのガスヒーターのうちグラスター缶内の一・三ボルト用のものの方が筆洗缶内の二・五ボルト用のものよりも灼熱が早いため、グラスター缶内の火薬の方が先に爆発するという性能となっていたこと

(3) 本件の際、右手製爆弾は、透明のビニール袋に包まれて置かれており、既にタイムスイッチがセットされていたが、表示灯の豆電球は、捜査官によって右火薬入りの二つの缶と電源部とが断線されたのち、同日午前四時三五分ころ点灯したこと

2  捜査の経緯に関する事実

前掲第一、二の各証拠等によれば、本件爆取事件の捜査の経緯に関して、次の各事実が認められる。

(一) 本件発生直後の捜査状況

(1) 前記巡査関昭夫は、犯人逃走後直ちに一一〇番通報し、これを受けた警視庁では、昭和四六年八月七日午前二時五分ころ緊急配備態勢をしき、右関の通報に基づく「逃走車両番号多摩記号不明四九八〇、犯人甲は小柄で髪短く白っぽい半袖シャツに黒ズボン、犯人乙は人相不明」という情報によって、総監公舎付近において不審車両、不審人物の検索に当たったところ、同日午前二時二五分ころ、警視庁四谷警察署司法巡査加藤顯が、同都新宿区坂町二五番地所在株式会社江戸屋新宿営業所先の通称靖国通り路上に新宿方面を向いた状態で放置されていたトヨペットコロナデラックス(RT20型、シルバーメタリック塗装、車両番号多摩五ひ四六八〇、以下、単に四六八〇車という。)を発見し、車両番号が前記情報と類似していたことや未だエンジンが暖かかったことなどから、前記逃走車両の可能性があるとして、同車内を調べたところ、被告人須藤正名義の車検証写があったため、四谷警察署に同車についての賍品照会をするとともに、同車の名義人須藤正に対し、連絡をとるように通報したこと

(2) 右通報を受けた四谷署では、宿直勤務中の警察官大木健治が同日午前二時三五分ころから同四〇分ころ、同都北区上中里二丁目四三番一号所在の被告人須藤方へ電話連絡したところ、同被告人の父須藤由太郎が電話口に出て通話中、同被告人が帰宅し、電話に出た同被告人は、右四六八〇車について「石神井の福冨に貸してある。住所は知らないが道案内はできる。」旨を答えたこと

(3) その後、警視庁麹町署の捜査員が、右被告人須藤宅に赴き、同被告人の道案内で、同日未明、同都練馬区上石神井一丁目四九八番地所在笠尾荘の被告人福冨宅へ行き、その後、麹町署において右両被告人から事情聴取したが、被告人須藤は、「車は七月二八日ころ福冨に貸した。当夜は二瓶宅にいた。」と述べ、被告人福冨は、「借りた車は前日(八月六日)午後新宿コマ劇場付近で盗まれた。」旨を述べたこと

(4) 一方、犯行直後ころ、前記四六八〇車が遺留されていた場所付近で捜査員が聞き込み捜査をしていた際、そのころ同所付近にたまたま居合わせた杉本洋子及び本橋ヒデ子から、七日午前二時すぎころ同所付近歩道上を曙橋陸橋方向に急ぎ足で行く二人連れの男を見た旨の情報を得たほか、翌八月八日ころ、同都練馬区関町四丁目六四四番地所在国場石油株式会社エッソ関町給油所の従業員髙橋賢蔵から、「八月七日午前零時少しすぎころ、報道されたコロナ四六八〇車に給油した。乗車していたのは三人連れで、『ハマナコ』あるいは『ハマナカコ』へ行くと言っていた。」旨の通報があったが、その後は同年九月初めころ、聞込み捜査の過程で東京近鉄観光バス株式会社運転手東郷隆興から「八月七日午前一時すぎころ、渋谷区神宮前の表参道から岐阜県中津川付近の椛(はな)の湖で開催されるフォークジャンボリーのためバスを運転したが、出発直前に多摩ナンバーのコロナを見た。」旨の情報を得た程度で、犯人割出しのための特段の資料を得られないまま推移したこと

(二) 窃盗事件の捜査と本件爆取事件の捜査

(1) 本件爆取事件発生直後に麹町警察署内に設けられた爆取事件の準捜査本部では、同年九月に入ってから前記第二、二2のとおり、被告人福冨及び二瓶らについて窃盗事件の疑いで捜査を始め、同年一一月には、二瓶、被告人福冨、同須藤、同桐野、同外狩及び同岩渕を逮捕し、前記のような捜査の経緯で、同事件の取調べが行なわれ、同月二七日二瓶につき、同年一二月八日被告人須藤につき、同月一四日被告人桐野、同岩渕及び同外狩につき、それぞれ窃盗罪の起訴がなされたが、右窃盗事件の強制捜査に着手した段階でも、爆取事件に関しては、犯人を特定するに足りる特段の資料は得られていなかったこと

(2) 同本部においては、同年一一月下旬ころから、右窃盗罪で起訴後の勾留中であった二瓶につき、四六八〇車関係の事情について取調べを開始し、他方、右窃盗罪の起訴前の勾留中であった被告人須藤についても、窃盗についての取調べが一応完了した同年一二月初旬ころから同様の取調べを始めていたところ、被告人須藤においては、同月七日、司法警察員松永寅一郎による火薬類取締法違反の被疑罪名のもとでの取調べに対して、本件総監公舎事件を認める供述をし、続いて、二瓶においても、同月一二日、司法警察員西海喜一による同罪名のもとでの取調べに対して、本件総監公舎事件を認める供述をし、右両名については、その後同月一五日爆発物取締罰則違反によって逮捕されるまで、火薬類取締法違反による取調べが続けられて、本件総監公舎事件に関する基本的な自白調書が作成され、これに基づき、同月一五日、爆発物取締罰則違反により、右二瓶及び被告人須藤や被告人福冨、同桐野、同岩渕及び外狩の逮捕が行なわれ、以後、同罰則違反による取調べがなされ、被告人岩渕においても、同月二一日に司法警察員松永鐵美の取調べに対して本件に加担したことを認める供述をし、昭和四七年一月五日、アリバイの成立した外狩以外の二瓶、被告人福冨、同桐野、同須藤及び同岩渕につき、本件の爆取事件の起訴がなされたこと

3  客観的証拠の検討

本件爆取事件の犯人特定に関する客観的証拠としては、本件発生時に、総監公舎内で犯人を目前で目撃した証人関昭夫の供述部分(第一五回、第一七回ないし第一九回)、右公舎の斜め向いの建物から右関昭夫ともみ合っている犯人を目撃した小野寺健二の司法警察員に対する供述調書(二通)、本件発生後間もないころ、前記四六八〇車が遺留されていた新宿区坂町付近の歩道上で急ぎ足で曙橋陸橋方面に行く二人連れを目撃した証人杉本洋子の供述部分(第九回)及び同様の目撃をした本橋ヒデ子の司法警察員に対する供述調書、本件発生前の昭和四六年八月七日午前零時すぎころ、練馬区関町のガソリンスタンドで四六八〇車に給油したという証人髙橋賢蔵の供述部分(第一〇回)、同じく本件発生直前の同日午前一時すぎころ、渋谷区内の表参道で四六八〇車に似たコロナ車を目撃したという証人東郷隆興の供述部分(第一四回)などがある。これらの証拠は、結論的に言えば、いずれもそれ自体によって被告人らを犯人と断定するに足りるものとは言い難いものであるが、後に検討する被告人らの自白を裏付ける証拠となり得るか否かという点でも検討に値するので、以下、これらの証拠について検討する。

(一) 証人関昭夫の供述部分(第一五回、第一七回ないし第一九回)

証人関は、本件発生時に手製爆弾を仕掛けた犯人を発見、目撃しただけでなく、その身体をも一時的にせよ掴まえ、その際には犯人と正対したという人物であるから、本件の犯人の特定に関しては極めて重要な証人であるところ、同証人の供述をみると、目撃した犯人の身長、体格、顔つき、年令、服装などについては、公判廷において「身長は一六〇センチメートル位でそんなにやせた感じではなく、比較的丸顔で、年令は二十五、六歳位。上は白っぽい半袖シャツで、下は確か黒っぽいズボンと思う。手には白っぽい手袋をはめていた。」旨(第一五回、第一七回ないし第一九回)を述べているほか捜査段階においても同様の供述をしており(46・8・7員面、同8・10員面、同12・21検面(二))、右内容は、本件発生直後の緊急配備の情報内容に関する証人加藤顯(第一五回)及び同大木健治(第一六回、第一七回)の各供述部分とも一致していて、証人関のこれらの点についての記憶は、比較的正確であるとみることができる。しかしながら、目撃した犯人の髪型については、本件発生当日の同人の46・8・7員面で「頭髪は短く刈っていた」旨を述べているほか、前記緊急配備の情報内容に関する証人加藤顯(第一五回)及び同大木健治(第一六回、第一七回)の各供述部分によると、関の通報は犯人の髪を短いとしていたことが認められ、これらの点に照らすと、証人関は、本件発生直後においては、犯人の髪型について短いという印象を抱いていたことが窺われるのに、その後46・8・10員面では「短目だったのではないかという記憶で、短い髪と断定できない。」と断定を避ける供述となり、46・12・21検面二通ではこの点に特に触れず、公判廷では「はっきり覚えていない。」と述べながら、「肩まで来ていないが、坊主刈のようではなく、我々のようなペシャ頭よりは少し長いという程度。」というばく然とした供述をしている(第一五回)。

検察官の主張によれば、総監公舎に侵入して手製爆弾を仕掛けた犯人は二瓶とされており、同人の本件当時の髪型は、司法警察員藤枝克嘉作成の被疑者写真入手報告書添付の二瓶の写真などによっても明らかなように、肩までは届いていないが一見して長髪の部類に属するものであるから、犯人の髪型に関する証人関の供述内容は非常に重要である。同証人は、公判廷においては「我々のようなペシャ頭よりは少し長いという程度。」と述べ、ある程度の長さがあることを否定しないようであるが(即ち、二瓶の可能性を否定しない。)、事件当夜犯人を一旦掴まえたうえ正対したという同証人において犯人の髪型を見間違う可能性は少く、また、同証人は一般私人ではなく、犯人を検挙すべき立場にある警察官であるから、より正確な第一印象を通報しあるいは供述するはずであり、現に髪型以外の人相、服装などについては当初から一貫した供述をしていることなどの事情に照らしても、同証人が当初抱いた犯人の髪は短いという第一印象はある程度確度の高いものとみるのが相当である。

ところで、同証人は、本件捜査の過程で二瓶を実際に見分したときの印象について、公判廷において「同年一二月初めころ逮捕中の二瓶に会った際、顔の輪郭、手を握ったときの感じ、背丈、体格から判断して犯人に似ていると思った。」旨を供述し(第一五回)なお、46・12・21検面(二)でも「背格好や腕の太さなどは一致しているが顔付はよく覚えていないので判断できない。ただ上から見降すと逆三角になっていて一致する。」旨を述べており、二瓶が目撃した犯人に似ている趣旨も述べているが、他方で、「事件後の同年八月末ころ新宿付近で見分した際には、似ているところもあるけれども、私には断言できないと述べた。」旨を供述し(第一九回)、また、「二瓶逮捕後の面通しの際部屋に入ったときに、即座に間違いないという表現は出てこなかった。」旨を供述しており(前同回)、同証人の二瓶を実際に見分した際の印象に関する供述も、目撃した犯人と断定できないだけでなく、結局甚だ自信のない不鮮明なものとなっている。

なお、同証人は、犯人が逃走する際の状況について、「同公舎の鉄製門扉前で私がその右手で犯人の右手首を、左手で犯人の左手首をつかんで腕を交差する形で正対してもみ合っているときに、犯人が急に体を下に落して尻の方から門扉の下の隙間をくぐって体を外に出して手を振って逃げた。」旨を述べているが(第一五回ほか)、そのような状況があり得るとしても、東京拘置所長岩崎隆彌作成の回答書によれば、二瓶の当時の体格は、身長一五八センチメートル、体重五八キログラム、胸囲八六センチメートルであって、身長の割には、決してやせてはおらず、その二瓶が幅一九・五センチメートル、高さ五二センチメートルの右鉄製門扉の狭い空間(司法警察員伊関徳吾郎作成の46・8・28実況見分調書)をさほど容易にくぐりぬけれるか否かは少くとも疑問である。

以上のとおり、証人関の犯人特定に関する供述部分は、ある程度の犯人像や犯人とのもみ合いなどの状況を具体的に述べてはいるが、その犯人が二瓶か否かという点になると、不鮮明であるばかりか、髪型などに関する供述に照らすと、かえって二瓶とみるには消極的な内容となっていると言える。

(二) 小野寺健二の司法警察員に対する供述調書二通(46・8・11、同8・17)

小野寺健二は、本件当夜である同年八月七日午前一時五七分ころ、総監公舎正門の斜め向い約四〇メートル余りのところにある長門産業株式会社の寮の四階の窓から、たまたま、右公舎の門扉内側付近で前記関巡査と犯人とがもみ合っている状況及び犯人が乗用車で逃走した状況を目撃した者であるが、右小野寺は、右司法警察員に対する供述調書中で、犯人の人相、服装などについて「身長は一六〇ないし一六五センチメートル位。やせ型、小柄な方で、年令は二〇歳から二四歳位で、髪は目立って長くもなく、又、短くもなく、ボサボサというもの。上衣が半袖の黒っぽいシャツで黒っぽいズボンをはいていたように記憶している。」旨を述べている(46・8・7、同8・17各員面)。右の供述は、前記関の供述部分に対比すると、犯人を「やせ型」としている点、シャツを「黒っぽい」としている点で異なっていることと、髪型について、「目立って長くもなく又短くもなくボサボサ」という微妙な内容となっていることが特色と言えるが、同人の目撃は、深夜遠くからのものであり、これで犯人を特定することは到底困難であって、二瓶の人相などとの対比においても積極、消極の両面を有しており、いずれにしても決定的な証拠ではない。

(三) 杉本洋子の供述部分(第九回)及び本橋ヒデ子の司法警察員に対する供述調書(46・8・30)

証人杉本洋子及び本橋ヒデ子は、本件発生後間もない同年八月七日午前二時すぎころ、四六八〇車が遺留されていた地点にほど近い新宿区片町二番地所在の飲食店「サルビア」付近歩道上で、曙橋陸橋方面へ急ぎ足で行く背丈に高低のある二人の男をたまたま目撃した者であるところ、右両名の供述は、それだけでは目撃した者が本件の犯人と特定するには到底足りない内容であるが、右両名、特に証人杉本の供述が捜査段階では相当重要な役割を果したことが窺われるほか、後記二瓶らの自白調書の内容にも少なからぬ影響を与えていることが窺われるので、その供述内容を若干検討しておくことにする。

証人杉本洋子は、目撃した二人の男の人相、服装について、公判廷で「背の高い方の男は、身長一七五センチメートル位で、割とやせており、髪は普通のサラリーマンのやっているような短いヘアスタイルで鼻の下には髭はなかった。」旨を、「背の低い方の男は、身長一六〇センチメートルあるかないか位。ふちの黒い眼鏡をかけており、背の高い方よりも少しふけて見えた。」旨をそれぞれ述べ(第九回)、その内容は、同人の46・12・20検面ともほとんど一致しており、おそらく警察段階の捜査でも同様の供述がなされたことが推定される(同証人の員面は証拠調べの請求も、弁護人への開示もされていない。)。右供述によると、背の高い方の人相は、髪型や髭の点などから被告人福冨の人相とは著しく異なるもので、同証人も公判廷で「本件発生直後、麹町署で髪の毛が長くて、髭のある人を見せられたが『違います。』と答えた。」旨を供述しており(第九回)、これらの点に照らすと、同証人の供述内容は、背の高い方の人物については、むしろ被告人福冨ではない可能性を示唆するものとなっている。そして、背の低い方の人相も、眼鏡をかけている点、年令が背の高い方よりもふけて見えたという点などから、二瓶の人相とは相当異なるもので、同証人も46・12・20検面で、二瓶の面通し後、「体つきは似ているが、眼鏡をかけていないし、もっと丸くふけた感じだったので似ているとは言えない。」旨を述べており、これらの点に照らすと、同証人の供述内容は、背の低い方の人物についても、むしろ二瓶ではない可能性を示唆するものとなっている。

なお、同証人は、二人の男の服装について「二人とも上はワイシャッで袖をまくっていたと思う。下は黒っぽいズボン。服は割とはっきり覚えている。」旨を供述し(第九回)、また、二人の所持品について「背の高い方が紙袋とカバンを持ち、低い人がカバンを持っていたと思う。」旨を供述しており(前同回)、右供述は、46・12・20検面ともほぼ符合しているもので、後記二瓶らの自白調書の内容との対比で注目に値する内容となっている。

他方、本橋ヒデ子の46・8・30員面の供述内容は、右杉本に比べると、不鮮明であるが、「背の高い方は、白っぽいシャツに黒っぽいズボンをはいた若い男。背の低い方は、ずんぐりとした小肥りの男。」と供述しており、背の高い方の上衣について白っぽいシャツという点で右杉本供述と一致しているが、二瓶(46・12・13員面(二)、同12・23検面)及び被告人須藤(46・12・11員面、同12・21員面(一))は、被告人福冨の当夜の服装について紺色系の半袖シャツと述べており、杉本及び本橋の各供述とは相違している。

(四) 証人髙橋賢蔵の供述部分(第一〇回)

証人髙橋賢蔵は、本件発生当時、同都練馬区四丁目六四四番地所在国場石油株式会社エッソ関町給油所の従業員で、本件発生少し前の同年八月七日午前零時すぎころ、右ガソリンスタンドで青梅街道を田無方面から走って来た多摩ナンバーの車両番号「四六八〇」のコロナ車に給油し、右車両に乗車していた者を目撃したという証人であるところ、同証人の供述部分のみによって、その目撃した車両が本件爆取事件の犯行に使用された車両であるとみることは困難であるが、同証人の供述が、前記証人杉本の場合と同様、捜査段階では相当重要な役割を果したことが窺われ、また、後記二瓶の自白調書の内容にも影響を与えていることが窺われるので、その供述内容を若干検討しておくことにする。

証人髙橋賢蔵は、目撃した車両には三人の若い男が乗車していたとし、そのうち運転していた者についての人相、服装について、公判廷で「身長は一六〇センチメートルちょっと位。長髪で髭はなかったように思う。年令は二十一、二歳位。紺色のジーパンをはき、上はグリーンがかった国防色のような袖が長目のTシャツで、サンダルを履いていた。」旨を供述している(第一〇回)。

右の供述によると、服装の点はともかく、人相については一見二瓶と矛盾しないようであり、現に同証人は捜査段階で、二瓶の写真を抽出し(司法警察員松永寅一郎に対する46・8・26員面)、また、二瓶の面通し後、「運転していた人に似ている。」と述べている(46・12・20検面)。

しかしながら、同証人は、運転していた者の身長について、捜査段階では一貫して「一七〇センチメートル位」と述べていたのであり(46・8・26員面、同12・20検面)、公判廷において「前に一七〇センチメートル位と述べたのは、その人がガソリンの計量機の台の上に乗っていたからで、実際は一六〇センチメートル位」と説明しているものの、運転者の身長に関する同証人の公判廷における供述部分は甚だ信ぴょう性に乏しいと言わざるを得ず、加えて、公判廷において、運転者に似ている人物として被告人岩渕を指示していることなどの事情に照らすと、同証人の目撃した運転者が身長一五八センチメートルの二瓶であると特定することは到底困難である。

また、二瓶の自白調書では、二瓶はペーパードライバーで、当夜車を運転していたのは被告人福冨とされているので、同証人の供述部分とは一致していない。

なお、同証人は、「目撃した車両の後部リヤウィンドの棚に茶系のボストンバッグ様のものと新聞包みが置いてあり、運転手以外の者一名が後部ドアの外側で車に肘をついて覆い隠すようにしていた。」旨や、運転していた者の発言内容として「これから『ハマナコ』又は『ハマナカコ』の方へ行くと言っていた。」旨などを供述していること(第一〇回、46・8・26員面、同12・20検面)は、二瓶の自白調書の内容との対比で注目される。

(五) 証人東郷隆興の供述部分(第一四回)

同証人は、東京近鉄観光バス株式会社の運転手で、本件発生直前の同年八月七日午前一時すぎころ、渋谷区神宮前の表参道で、岐阜県中津川付近の椛の湖で開催されるフォークジャンボリー行きのためバスを待機させていた際、四六八〇車に似た多摩ナンバーのコロナ車を目撃したという証人であるところ、同証人の目撃したコロナ車については、車両番号を確認している訳ではなく、要するに外形が四六八〇車に似ているコロナ車を見たというにとどまるもので、同証人の供述部分によってその車が本件犯行に使用されたとみることは到底困難である。

なお、同証人の供述も、二瓶の自白の裏付けとされているが、同証人の供述部分によれば、「そのコロナから人が乗り降りしたり、荷物を出し入れしたりするのは気がつかなかった。同車は、バスが出発した午前一時二〇分より五分前位にその場を離れた。」とされており、右内容は、後述するように、二瓶の自白内容である「午前一時四〇分ころ」とか「午前二時近く」とは相当異なり、右自白の裏付けとみることは困難である。

4  被告人らの自白調書の検討

右に述べたとおり、本件爆取事件に関しても、客観的証拠が乏しく、結局、当裁判所が事実の存否の判断資料として取り調べた前掲の被告人須藤(46・12・15、同12・17、同12・22、同12・24、同12・25、同12・28、47・1・12(一)(二))、同岩渕(46・12・23、同12・28((但し、同被告人関係で))、同12・29、47・1・24)、同外狩(46・12・24、同12・28)及び二瓶(46・12・15、同12・23、同12・29、47・1・11、同1・26)の検察官に対する各供述調書並びに前掲二瓶についての第一審公判調書(第二回)中の二瓶の供述部分が本件成否を左右する主要な証拠になる。右は、いずれも本件犯行についての自白、ないしこれを認める趣旨のものであるが、右の内容が被告人らの本件犯行を証明するに足りるものか否かの判断に当たっては、本件においても、右の自白調書に先行して、警察段階における多数の司法警察員に対する供述調書及び被告人ら自らが作成した自供書が存在するので、これらをも併せて検討、吟味する必要がある。以下、まず、右の検討、吟味をしたうえ、当裁判所が事実の存否の判断資料として取り調べた自白調書について、主としてその信用性を検討することにする。

(一) 被告人らの捜査段階における供述の検討

ここでは、当裁判所が事実の存否の判断資料として取り調べたもの及び捜査の経緯の資料として取り調べたものを併せて、被告人らの捜査段階における供述内容を検討する。なお、検討に際しては、検察官の主張する事実に対応する形で検討することにする。

(1) 実行行為当日の状況関係

検察官は、本件爆取事件当日の状況について、大要、「昭和四六年八月六日夜、被告人福冨の運転する四六八〇車に被告人桐野、二瓶が同乗して被告人福冨方へ行き、爆弾一個を持ち出してこれを積み、エッソ関町給油所で給油をして新宿の『十月社』に寄り、被告人桐野を降車させたのち、被告人福冨、二瓶は、四六八〇車で表参道のフォークジャンボリー行きバスの発車地を経由して総監公舎に向かった。八月七日午前一時五七分ころ、千代田区一番町二三番地所在の総監公舎付近において、二瓶は、爆弾の時限装置を操作してから、これを両手に持って同車を降り、総監公舎の門扉の鉄柵の間をすり抜けて同公舎構内に入り、同公舎建物の西角隅から約一・三メートルの地点に右爆弾一個を設置した。その直後、二瓶は、警備中の関昭夫巡査に発見されて両手首などをつかまれたが、これを振り切り、同公舎近くに待機していた被告人福冨の運転する四六八〇車に飛び乗って逃走した。同日午前二時すぎころ、被告人福冨、二瓶は、四六八〇車を新宿区坂町二五番地先の靖国通りに放置し、同所近くの曙橋下の通路で午前一時ころから待機していた被告人須藤の運転する自動車に乗り移って『十月社』に行き、そこで待機していた被告人桐野に失敗した旨を報告した。」と主張している。

しかしながら、右の状況に関する被告人らの供述には、次のような問題点がある。

ア 八月六日夜新宿「ニユートップス」で二瓶と被告人須藤が落ち合った際の状況に関する二瓶の供述が著しく変遷し、かつ、被告人須藤の供述とも一致しないこと

検察官は、論告では八月六日夜被告人福冨宅へ向う前の状況について特に触れていないが、冒頭陳述においては、「八月六日午後八時ころ、二瓶は、新宿区内の喫茶店『ニュートップス』に被告人須藤を呼んで、翌七日午前一時までに曙橋付近に自動車を待機するよう確めたあと、付近の喫茶店『タイムス』に赴いて、被告人桐野、同福冨と会い、被告人須藤が右の了解をしたことを告げ、八月六日午後一一時三〇分ころ、被告人福冨、同桐野及び二瓶が被告人福冨宅へ爆弾を取りに行った。」旨を主張しており、右の状況は、本件爆取事件当日の被告人らの行動の出発点とも言うべきもので、この点についての二瓶及び被告人須藤の供述は、吟味しておく必要である。

まず、被告人須藤は、任意捜査の段階で既に、八月六日の夜「ニュートップス」で二瓶と会っている旨を述べているが(46・9・6員面)、同被告人の最初の自白調書では、「八月六日夜、二瓶の電話呼出しで『ニュートップス』で同人と会い、午後八時ころ別れる際『それでは頼む』と前日打合せた曙橋待機の件の念押しをされた。」旨を供述し(46・12・7員面(二))、その後、謀議状況については供述を変えているが、「ニュートップス」で二瓶から単に念押しをされたという点については供述を維持している(46・12・9検面、同12・16員面、同12・22検面)。

これに対し、二瓶は、同人の最初の自白調書では、司法警察員西海喜一に対し、「八月六日午後八時ころ、『ニュートップス』で桐野、須藤、二瓶が最終打合せをし、午後九時ころ福冨も加って了解をし、午後一一時すぎころ、二瓶と福冨が四六八〇車で福冨宅へ爆弾を取りに向った。」旨、会った人物、内容とも前記被告人須藤とは全く異なる供述をし(46・12・12員面(二))、その翌日、一転して「『ニュートップス』では須藤だけに会い、打合せはせず、『じゃあ、頼む』と言って、午後八時ころ店を出た。」旨、被告人須藤と全く同一内容の供述に変わり(46・12・13員面(一))、その一方で、検察官に対しては「『ニュートップス』では、爆弾を仕掛ける時間が多少遅くなるかもしれないと思ったので、須藤に曙橋での待機時刻を午前一時から二時までと言っていたのを午前三時ころまで待ってくれと頼むとともに、あわせて確認し、その後『タイムス』へ行った。この夜桐野から中津川溪谷で開かれるフォークジャンボリーに参加する三里塚の石井新二、小川了を『十月社』から青山まで送ることを頼まれていた。」と、石井、小川らを送るという事情で待機時刻の延長の確認をしたようにもとれる供述をしつつ(46・12・15検面)、その翌日、前記西海に対しては、前と同様、単なる念押しのみであった旨を述べ(46・12・16員面)、更に、その後、司法警察員北岡均の取調べでは「八月六日午後三時ころ桐野から当日三里塚の者が中津川に行くため四六八〇車を貸すという話があり、昼間中津川の関係で車を貸していたので、決行時刻が遅れるかもしれないということと、陸橋下で待つことを確認するために、『ニュートップス』で須藤と会った。」と供述を変更し(46・12・18員面)、当日犯行前に四六八〇車を貸与するという点をあげて、決行時刻遅延の可能性確認のためであるとし、この供述は、その後の46・12・23検面でも更に詳細な事情を述べて維持している。

右のように、当夜の「ニュートップス」で落ち合った趣旨についての二瓶の供述は、内容的にも変遷が甚しく、しかも取調官が異なると、供述内容が変わるという点でも不自然であるうえ、最終的な供述中で決行時刻の遅延の可能性の理由としてあげている八月六日午後三里塚の者が中津川に行くために四六八〇車を貸したという点にしても、ここにいう「中津川」が岐阜県の中津川であることは前後の経緯から明かで、東京から到底数時間で往復できる距離にはなく、同日午後三時ころ以降に一旦同車を貸してしまえば、もはや犯行には使用できないことになり、その供述自体極めて矛盾を含む内容となっている(なお、取調官において、右「中津川」を東京から程近い神奈川県の「中津川溪谷」と誤解していたのではないかとも窺われる。)。

他方、被告人須藤の供述内容も、「ニュートップス」で二瓶と会った趣旨につき、単なる念押しという点で一貫はしているものの(46・12・7員面(二)、同12・16員面、同12・22検面)、重大な犯行の当夜、さしたる用件もなく単なる念押し程度の理由で二瓶と落ち合うというのもかえって不自然とも言え、反面、仮りに二瓶の供述するような事情で曙橋待機時刻の延長を頼まれたとすれば、犯行に加担する者としては重要な事柄であるから当然記憶に残っていてもよさそうであり、いずれにしても、不自然の感を免れない。

イ 本件爆弾の当日の容れ物などに関する二瓶の供述が不自然に変遷していること

検察官の主張によれば、二瓶は、本件当夜、被告人桐野及び同福冨とともに同被告人宅へ行って本件爆弾を四六八〇車に積み込み、以後、「十月社」、表参道を経て総監公舎においてこれを仕掛け、曙橋まで逃走したとされており、そうであるとすれば、この間、二瓶は、右爆弾の保持について重大な関心を抱いていたはずであり、また、その容れ物についても明確な記憶を有しているはずであるが、その容れ物などに関する二瓶の供述は、極めて不自然に変遷をしている。

即ち、本件についての最初の自白調書である司法警察員西海喜一に対する供述調書では、「福冨が同人宅から水色のナップザックに入れて来たのを自分が車の助手席のダッシュボードへ入れた。総監公舎手前でナップザックから爆弾を取り出してセットした。曙橋付近では、自分がそのナップザックを持って駆けた。」旨を述べていたが(46・12・12員面(二))、翌日の右西海の取調べに対しては、「福冨が持って来た黒っぽいボストンバッグを自分が車のリヤウインド棚の右寄りに置いた。公舎手前で右ボストンバッグから爆弾を取り出してセットした。曙橋付近では、自分がそのボストンバッグを左手に持って走った。」と供述を変更して右バッグを図示し(46・12・13員面(一))、46・12・15検面や同12・16員面では、ボストンバッグの中にナップザックが入っていたと述べたのち、46・12・18の司法警察員北岡均に対する供述調書では、「黒ボストンではなく、透明ビニールのカバーのついた水色手提紙袋でその中に水色ナップザックが入っていた。ガソリンスタンドで車の中が見えないように体を覆ったのは手提袋だったから。曙橋付近で走った際自分が持っていたのは当日朝から自分が持って来た黒色ビニール製ボストンバッグで、水色紙製手提袋は福冨が持って走ったもの。」と再度供述を変更し、46・12・23検面及び同12・29検面でもこの供述を維持している。

真犯人であれば、爆弾の保持については、万全の注意を払うはずであり、その容れ物、置き場所についても相応の関心を抱いているのが当然と思われるが、右にみたように二瓶のこの点に関する供述の変遷には極めて不自然なものがある。

ここで、前記客観的証拠の検討の際に触れた、証人杉本洋子の「背の大きい人が紙袋とカバンを持ち、背の小さい人がカバンを持っていたと思う。」旨の供述部分(第九回、46・12・20検面も同旨)や、証人髙橋賢蔵の捜査段階における「リアウィンドの棚右側に新聞紙の包み、左側に茶系のボストンカバンが置いてあり、運転手以外の者一名が後部ドアの外側で車に肘をついて覆い隠すようにしていた。」旨の供述(46・8・26員面、同12・20検面もほぼ同旨)を想起するとき、警察段階における取調べにおいてこれらの客観的証言に合わせるよう誘導的な取調べが行なわれた結果、このような供述の変遷になったのではないかとの疑問を抱かざるを得ない。

なお、被告人須藤は、曙橋付近で乗り継いだ際の被告人福冨、二瓶の持ち物について、「福冨は青いナップザックを持って乗り込み、二瓶は何も持っていなかったと思う。」旨を述べており(46・12・22検面)、前記二瓶や杉本の供述とも異なっている。

ウ エッソ関町給油所における給油状況に関する二瓶の供述に不自然な変遷や客観的証拠と矛盾する点がみられること

検察官の主張によれば、二瓶らは、被告人福冨宅から新宿の「十月社」へ向う途中、前記髙橋賢蔵が勤務するエッソ関町給油所においてガソリンの給油をしたとされているが、その際の状況に関しても、二瓶の供述には不自然な点が多い。

まず、二瓶は、自白当初「車に乗っていたのは福冨と二人で、自分が二〇リットル入り赤色補助タンクをトランクから取り出して給油してもらい、代金一、二〇〇円位を払った。補助タンクに入れたのは犯行後、『十月社』で待っている山瀬に岐阜中津川のフォークジャンボリーへ行くのに車を貸す予定があったから。」と給油状況についてかなり具体的に述べていたが(46・12・12員面(二))、翌日の取調べでは、「車に乗っていたのは福冨、二瓶、桐野の三人であり、ガソリンを入れたのは補助タンクでなく車自体のタンクに入れた。代金は福冨が払い、自分はボストンバッグを店員に見られないように車の左側に体をかぶせるようにしていた。店員がどちらにと聞くので、中津川ケイコクに行くのだと返事した。」と内容を一転させている(46・12・13員面(一)、同12・16員面も同一)。更に、その後「店員に見せないように覆ったのは、爆弾が手提袋に入っていたから。」と修正し(46・12・18員面)、46・12・23検面は、右の最終的供述と同一内容となっている。

二瓶の供述の内容は、一応それぞれ具体的であって、単なる記憶違いとは考えられず、ここでも、前記爆弾の容れ物の場合と同様、警察段階の取調べにおいて、前記髙橋賢蔵の供述などに合わせるように誘導的な取調べが行なわれたのではないかとの疑問を払拭できない。

なお、二瓶の右供述中、店員に対する言葉として「これから中津川ケイコク(溪谷)へ行く」という部分があるが(46・12・13員面(一)、同12・16員面、同12・23検面)、髙橋賢蔵は、右会話について、捜査段階より「中津川ケイコク」と聞いたとは述べておらず、「ハマナコ」あるいは「ハマナカコ」などと聞いたと述べているので(第一〇回、46・8・26員面、同12・20検面)、この部分の二瓶の供述は、右髙橋の供述と一致しない。しかも、「中津川溪谷」と言えば、神奈川県内の中津川溪谷を指しても、岐阜県の中津川を指す言葉とはみられず、岐阜県の中津川のフォークジャンボリーを知っているはずの二瓶が店員に対して「中津川溪谷へ行く」と話すというのは不自然であって、いずれにしても、二瓶の供述中の右部分は、捜査官の誤解かあるいは誤った誘導ではないかとの疑問を生ずる。

また、二瓶は自白調書中では、被告人福冨が四六八〇車を運転していた旨を述べているが、右髙橋は、運転していた者についてむしろ二瓶に似ていた旨を捜査段階で述べており(46・8・26員面、同12・20検面)、この点も、髙橋の供述と矛盾している。二瓶が当時、運転免許証は有していてもいわゆるペーパードライバーであったことをも考え合わせると、髙橋が目撃した運転者が誰であったのか、結局不明ということにならざるを得ない。

更に、二瓶は、エッソ関町給油所に至る道順について「青梅街道を右折して上石神井の福冨方へ行き、その後来た道を戻って青梅街道を左折し、新宿方向に走り出して間もなく左側のガソリンスタンドに入った。」旨を述べているが(46・12・12員面(二))、客観的には、同給油所は、練馬区上石神井の被告人福冨宅よりも、約二キロメートル位西方に位置しており(司法警察員待鳥律義ほか二名作成の捜査報告書等)、二瓶の供述どおりでは、同給油所に至ることは想定し難い。(もっとも、右供述はともかく、被告人福冨宅から東方の新宿方面に行く際に、同被告人宅よりも西方にある同給油所にわざわざ出向くということ自体、不自然とも言える。)

エ 「十月社」から表参道を経由して総監公舎に至るまでの状況に関する二瓶の供述に客観的事実と相違するなどの不自然な点があること

検察官の主張によれば、二瓶及び被告人福冨は、新宿の「十月社」から表参道まで岐阜県中津川のフォークジャンボリーに行く予定の三里塚の石井新二、小川了を四六八〇車に乗せて送ったとされ、これは一見前記東郷隆興の供述と対応するようであるが、客観的事実として、右東郷の運転するバスは八月七日午前一時二〇分に表参道を出発しており、右東郷の供述によれば、同人の目撃したコロナ車は右出発の五分位前には同所を立ち去ったというのであるから(第一四回、46・12・21検面)、もし同車が本件の四六八〇車であれば、同所を午前一時一五分ころ立ち去ったことになる。しかしながら、二瓶は、この時刻について、根拠をあげて「石井らを降したのは午前一時四〇分である。」旨(46・12・16員面)や、「午前二時近かったと思う。」旨(46・12・23検面)を述べ、客観的時刻と相違する供述をしている。

二瓶供述の客観的事実との不一致はともかくとして、もし、四六八〇車が午前一時一五分ころに表参道を立ち去り、二瓶の供述するような道順で(46・12・16員面、同12・26検面)総監公舎へ向ったとしたならば、表参道から総監公舎までは約五キロメートル位で、時間帯が深夜であることも考え合わせると、せいぜい一〇分ないし一五分程度で右公舎に到着することになり、午前一時五七分に本件が発生したという客観的事実との間に時間的間隙を生ずる結果となる。二瓶供述によれば、爆弾をセットするのにさほどの時間を要したとはされておらず、また、ほかに特段の時間を費した旨も述べられていないので、右の時間的間隙は不可解なままになっている。

また、「十月社」から表参道まで三里塚の石井新二や小川了を送ったという点に関してであるが、重大な犯行決行直前の時間帯に、しかも、当夜被告人桐野が突然言い出して送ることになった(二瓶46・12・13員面(一)、同12・16員面、同12・23検面)というのは、いかにも唐突で、重大な犯行を決行しようとする者の行動としては不自然という印象を免れない。なお、右石井、小川の行先について、二瓶は、「中津川溪谷で開かれるフォークジャンボリーに」(46・12・15、同12・23各検面)と供述しているが、前述したように、「中津川溪谷」と言えば、神奈川県内の中津川溪谷を指しても岐阜県の中津川を指す言葉とはみられないのであって、右供述は客観的事実と齟齬するばかりでなく、捜査官においても、前述したような「中津川」についての誤解があったのではないかとも窺われる。いずれにしても、客観的には現在する右石井、小川について裏付供述は得られていない。

オ 本件爆弾のセット状況に関する二瓶の供述がその客観的性状と相違するなど不自然であること

本件爆弾のセット状況に関する二瓶の供述は、本件犯行に直接関連するものであるから極めて重要であるが、この点についても、二瓶の供述は不自然な点が多い。

第一に、二瓶は、46・12・16員面で「爆弾を午前三時にセットして電源のスイッチを入れたら豆電球がついた。」旨を述べているが、前記第三、二1(三)で述べたとおり、本件爆弾の構造上一旦タイムスイッチをセットすれば、電源からの通電が止まり、豆電球は点灯しないことが明らかであって、二瓶の右供述は明白に本件爆弾の客観的性状と齟齬する(構造上、豆電球が点灯すれば、即爆発ということになる。なお、グラスター缶及び筆洗缶と電源を結ぶコードを開放したうえで、タイムスイッチをセツトせずにスナップスイッチを入れれば、豆電球は点灯するが、そのようなことをした旨の二瓶の供述はない。)。

これに関連して、被告人須藤も、右二瓶の供述前に、46・12・10員面において、爆弾を京都で入手した際の相手方の男の説明内容として「スイッチを入れると豆電球がつきタイムスイッチが作動する。」と述べているほか、46・12・15検面や同12・24検面でもこの供述を維持しており、明らかに本件爆弾の客観的性状と矛盾する供述をしている。

時限式爆弾を仕掛ける犯人にとって、タイムスイッチのセット方法、手順などは犯行における最も重大で関心の強い事柄であって、記憶違いや取扱いの間違いなどはまず考えられないところであるが、右二瓶や被告人須藤の供述は、客観的には点灯するはずのない豆電球が点灯したとし、あるいは点灯すると説明を受けたというもので、右両名とも同様の誤りとなっており、甚だ奇異と言わざるを得ない。

次に、二瓶は、セットした爆発予定時刻について「午前三時ころ」(46・12・12員面(二)、同12・13員面(一)、同12・15検面、同12・16員面、同12・29検面)と一貫して述べているが、前記認定のとおり、本件爆弾のタイムスイッチが現実に通電状態になった(豆電球が点灯した)のは同日午前四時三五分ころであるから、この点も二瓶供述は客観的事実と齟齬する。検察官は、この点に関して、二瓶がタイムスイッチの操作を誤り、内側の可動ダイアルのつまみの矢印を外側の「おのぞみの時刻」の数字「3」付近に合わせて午前三時ころにセットしたと思い込んだものと主張するが、二瓶は大学の物理学科の学生であったものであり、しかも、重大な爆弾使用の実行をするとなれば相応の準備を当然するはずであるから、内側の「今の時刻」の表示が全く無意味となってしまうような単純な操作の誤りをすることとはまず考えられない。

なお、本件爆弾は、透明なビニール袋に包まれた状態で仕掛けられていたことが明らかであるが、前記のように爆弾の容れ物については様々な供述をしている二瓶も、右ビニール袋については何ら言及していない。

カ 本件爆弾を置いた地点に関する二瓶の供述中に客観的状況と明らかに齟齬するものがあること

本件爆弾が放置されていた地点は、前記認定のとおり、総監公舎の建物の南西角付近の敷石付近で同所付近にある垣根及び木戸よりも西側の前庭側であるが、二瓶は、司法警察員渡邉吉男に対する46・12・20員面(二)で、右地点を「建物の右端から五メートル位奥に進んだドアのような出入口の前の四角い敷石上」と述べたうえ、これに沿う図面を書いている。右の供述や図示によれば、前庭側ではなく、垣根や木戸の奥の方に爆弾を置くことになり、客観的状況と著しく齟齬することになる。もっとも、右地点に関してこれほど不正確な内容の調書はほかにはないが、自白後しばらく経過した段階でもなお、取調官が変ると、このような供述をするというところに、二瓶の供述の信ぴょう性に問題があると言える。

キ 曙橋付近における須藤車への乗継ぎ状況に関する被告人須藤及び二瓶の供述が不正確で一致しないこと

検察官は、「二瓶及び被告人福冨は四六八〇車を新宿区坂町二五番地付近で放置し、同所付近の曙橋下の通路で待機していた被告人須藤の車に乗り移った。」と主張するが、その具体的状況に関する被告人須藤及び二瓶の供述は、それぞれ不正確で、相互に一致しない。

まず、待機場所に関して、被告人須藤は、46・12・7員面(二)及び同12・16員面で、曙橋陸橋の真下の「空地」に車の後部を奥に入れ前部を靖国通りに面する形で待機した旨を述べて図示しているが(46・12・9検面も同旨)、実際には図示した陸橋の真下には「空地」はなく、類似のものとしては陸橋脇に幅員約三・〇メートルの通路があるのみで、引当り捜査の際には右通路に駐車していた旨指示しているものの(司法警察員小出英二ほか二名作成の46・12・27実況見分調書)、同被告人の供述内容と客観的状況とは相違があり、特に同被告人は同所で約一時間も駐車して待機していたというのであるから、右のような不正確な供述をするというのは不自然である。

また、この点に関する二瓶の供述は、なお不正確で、当初作成した図面では、曙橋の記載もなく(46・12・12員面(二))、その後作成した図面では曙橋の真下の靖国通り上である旨を記載し(46・12・18員面)、更に、その後の引当り捜査の際には、被告人須藤が指示した通路でなく、右曙橋のやや市ヶ谷寄りの靖国通り上を指示している(司法警察員西海喜一ほか四名作成の46・12・29実況見分調書)。そして、いずれの場合も、須藤車が靖国通り上に新宿方面を向いて駐車されていたように指示している。二瓶の場合、逃走中急いでいたという事情があったとしても、車の向きなどが被告人須藤の供述と一致していないのは不自然である。

次に、二瓶と被告人福冨の乗り込み状況に関して、被告人須藤は、右両名とも後部座席に乗ったと述べているが(46・12・22検面)、二瓶は、被告人福冨が後部座席、二瓶が助手席に乗ったと述べており(46・12・21員面、同12・29検面)、この点も一致していない。

なお、待機の趣旨に関しても、被告人須藤は、犯行に失敗したとき乗り継ぐため(46・12・10員面ほか)と述べているのに対し、二瓶は、供述を変えたのち、失敗しても成功しても少くとも二瓶自身は乗り継ぐつもりであった旨(46・12・22員面、同12・29検面)を述べている。

ク 「十月社」における須藤車の乗降者に関する被告人須藤の供述が変遷し、かつ、二瓶の供述と一致しないこと

検察官は、論告では触れていないが、冒頭陳述では、「須藤車は、八月七日午前二時一〇分ころ、被告人桐野らのいる『十月社』に戻り、計画の失敗を告げ、被告人須藤は、同車に二瓶らを乗せてその自宅に送り届けてから同日午前二時五〇分ころ自宅に帰宅した。」旨を主張している。本件当夜被告人須藤がどのような行動をしたかは、前記認定のとおり、同被告人が同日午前二時三五分から同四〇分ころ帰宅しているとみられるところから重要であり、この点に関する同被告人及び二瓶の供述を検討しておく。

被告人須藤は、自白当初は「『十月社』で福冨を降ろし、その後二瓶を同人方まで送って帰宅した。」旨を述べていたが(46・12・7員面(二)、同12・9検面)、その後、「『十月社』で福冨と二瓶を降して帰宅した。」と供述を変更している(46・12・16員面、同12・22検面)。これに対し、二瓶は、「『十月社』で福冨を含め三人が乗り、桐野、二瓶の順に送ってもらった。」(46・12・12員面(二)、同12・16員面)とか、「『十月社』には桐野と山瀬がおり、失敗したというと、桐野は驚き、すぐ『みんな』須藤車で各自の家まで送ってもらった。」(46・12・15検面)とか、「桐野、二瓶、福冨が各自送ってもらった。」(46・12・18員面、同12・21員面)とか述べ、最終的には「桐野、二瓶は送ってもらった。福冨を送ったかどうかわからない。」(46・12・29検面)と供述している。

右のように被告人須藤と二瓶の供述が際立った相違をみせていること、かつ、それぞれの変遷、特に被告人須藤の変遷が不自然であることが指摘できるが、ここで重要なことは、「十月社」から自宅へ直行した旨の被告人須藤の二通の供述調書を除くその他のいずれの調書によっても、少くとも二瓶宅へ立寄ったとされていることである。二瓶の当時の住所は中野区《番地省略》所在の小林方であったから、曙橋付近を同日午前二時数分すぎに出発して、土曜日の深夜で混雑が推定される新宿の繁華街を抜け、「十月社」に立ち寄り、その後右弥生町の二瓶宅(「十月社」から約二キロメートル)へ二瓶を送った後、北区上中里の被告人須藤宅に帰るとなると、帰宅時刻が午前二時三五分ないし四〇分というのは極めて困難ということになろう(なお、検察官は、右帰宅時刻につき、冒頭陳述では前記のように午前二時五〇分ころとしていたが、論告では午前二時三七分ないし四二分ころとしている。)。「十月社」から直行したとすれば、右時刻の帰宅は不可能ではないが、そうであるとすると、二瓶の前記自宅まで送ってもらった旨の供述はすべて虚偽ということになる。いずれにしても、この点に関する両名の供述は矛盾したままになっている。

ケ 四六八〇車の第三者への貸与をめぐって、二瓶の供述が不自然に変遷し、かつ、被告人須藤の供述と一致していないこと

まず、被告人須藤は、同車の貸与につき、「八月五日夜喫茶店『タイムス』で桐野、須藤が三里塚闘争で活躍している山瀬と会った際、同人から中津川行きのため車の手配を頼まれ、桐野が八月七日午前二時に『十月社』で渡すと約束した。」と犯行後に貸与する予定であった旨を述べているが(46・12・11員面、同12・16員面、同12・22検面)、二瓶は、この点について、当初、本件自白前の46・12・9員面(二)では「山瀬、高瀬から中津川のジャンボリーに行くため車貸与依頼の話があって、八月六日午後福冨が車を持って来て山瀬が持って行ったと思う。」と本件前の貸与を述べ、その後、本件自白後、一旦本件後に貸与する予定であった旨を述べたものの(46・12・12員面(二)、同12・13員面(一)、同12・16員面)、再度、前記アで述べたとおり事前に中津川へ行くために貸与した旨に変更している(46・12・18員面、同12・23検面)。なお、46・12・29検面では、一方で「この日は、車を人に貸したり、人を送ったりして爆発させる時刻が遅れてしまった。」と述べながら、他方で「犯行後『十月社』に行くと車を借りるため山瀬が待っていた。」旨を述べるなど矛盾する供述をしている。このように、二瓶の供述は、全体に極めて不可解な供述となっているが、同人が本件犯行を自白したのちも、四六八〇車の事前貸与について相当固執していたことも窺われ、この点は、後記アリバイの項でも触れるように、被告人福冨及び同桐野が当公判廷において、第三者への事前貸与引渡しについて具体的に供述していることとも関連して、注目される。

(2) 本件犯行に至る動機、経緯関係

検察官は、本件爆取事件の犯行に至る経緯について、大要、「被告人桐野は、武装闘争を主唱する京都大学助手滝田修こと竹本信弘らと親交を重ねる一方、被告人福冨とも親密に交際し、また、被告人須藤、同岩渕、外狩及び二瓶らとも『十月社』、『楼蘭公司』、学習会などで深い接触を保って、闘争理論についての意見の交換や情勢分析などをし、また、三里塚闘争にも深くかかわっていたものであるが、昭和四六年五月二六日ころ、被告人須藤及び二瓶を連れて被告人福冨方に赴き、ここで権力の中枢機関に爆弾を仕掛けて爆発させ、社会不安を醸成させるいわゆる爆弾闘争を提案した。そこで、翌二七日、被告人福冨及び二瓶が四三二三車で爆弾の仕掛け先の下見に出掛け、総監公舎に向う途中で三重追突事故に遭遇し、同車を放置して逃走した。その後、学習会の席で、被告人桐野らは、爆弾製造教本『薔薇の詩』によって爆弾の製造を検討したが、薬品の入手難などにより自ら製造することは見合せることとした。」と主張しているが、本件犯行の動機については明確な主張をしていない。

しかしながら、右の点に関する被告人らの供述には、次のような問題点がある。

ア 本件犯行の動機、目的に関する被告人らの供述に具体性がないこと

本件のように警察施設に向けて爆弾を使用するからには、それなりの動機、目的があって然るべきであるが、被告人らの自白調書中には、爆弾使用の動機、目的などについて具体的に述べたものが見出せず、抽象的に「反権力闘争」、「三里塚闘争」のためというにとどまっている。

前記客観的事実の被告人らの経歴、当時の生活状況の項で認定したとおり、本件当時の被告人らの行動などをみても、被告人桐野が三里塚関係の支援活動をしていたほかは、被告人福冨、同須藤、同岩渕及び二瓶が、いわゆる「反権力闘争」や「三里塚闘争」に積極的に参加していたことを窺わせる証拠はなく、また、いわゆる「学習会」にしても、その内容、参加者に照らして、「反権力闘争」や「三里塚闘争」を具体的に行なうためのものとは到底認め難く、名実ともに「学習会」程度にとどまるものとみるのが相当である。

したがって、被告人らの供述によっても、また、客観的情況証拠からも、被告人らの本件犯行の具体的動機、目的が曖昧なままになっている。もし、犯行を行なった者であれば、この点について具体的な説明がなされるのが自然であろうと思料される。

イ 五月二六日夜の被告人桐野による爆弾闘争提案とこれに引き続く被告人福冨、二瓶による総監公舎下見に関する二瓶らの供述が不自然であること

検察官の主張によれば、昭和四六年五月二六日夜に被告人桐野による爆弾闘争提案があり、直ちに下見に出かけたとされているが、この点については、疑問点が多い。

右の提案、下見について供述しているのは、二瓶であるが(46・12・13員面(三)、同12・23検面)、この点について供述した経緯は、前記窃盗事件に関して、五月二七日の麹町二丁目交差点における追突事故の際に四三二三車に乗車していた者につき、変遷を経たうえ、自分と被告人福冨であると供述したことと関連して述べられたもので、その変遷の経緯が不自然であることは前述のとおりである。

加えて、変遷後の二瓶の供述によっても、五月二六日、二七日の段階で爆弾闘争の提案がなされ、下見することが唐突であったとされている。即ち、当日の状況について、二瓶自身、46・12・23検面で「同夜、福冨宅で雑談中、桐野が突然、『爆弾なら京都から手に入るがどうか。』と言い出した。」と供述している。他方、同席していたという被告人須藤は、「当夜、桐野や二瓶と福冨宅へ行き爆弾闘争の話をしたと思う。福冨と二瓶が下見に行ったということは知らなかった。」(46・12・25検面)という程度の供述にとどまっている。

右のように自白している被告人ら自身、この時期における爆弾闘争の提案、下見を唐突であるとし、あるいは下見の事実を知らないとしているなど、自白供述によっても右提案、下見の不自然さが窺われるが、全自白調書及びその他の証拠を検討しても、五月二六日、二七日という時期に、なぜ被告人桐野が突然爆弾闘争の提案をしたのかという点、被告人福冨がどのような経緯で爆弾闘争に賛成するようになったのかという点、突然の話にもかかわらず、どうして急に下見に行く話になったのかという点、下見の場所の一つとしてどうして総監公舎が選ばれたのかという点、提案者の被告人桐野がなぜ下見に行かないのかという点など、重要な諸点について疑問が解明できない。

その他、前述したように動機が不明であること及びこの時期に爆弾闘争の話が具体的に行なわれていたとは到底窺われないことをも併せ考えると、右爆弾闘争提案、下見に関する二瓶及び被告人須藤の供述の信ぴょう性には疑問がある。

ウ 「薔薇の詩」による爆弾「製造」の検討に関する被告人らの供述が一致せず、かつ、不自然であること

被告人らの供述調書中には、同年六月下旬ころ、「薔薇の詩」を見た旨を述べている部分があるが、爆弾「製造」の検討についてまで比較的具体的に言及しているのは二瓶くらいであって(46・12・23検面ほか)、被告人須藤の供述も、その状況については具体的ではないし(46・12・9、同12・15、同12・25各検面)、被告人外狩は、その時期を「五月中旬と思う。」と述べ(46・12・24検面)、被告人岩渕は、「自分は前に読んでいたので受け取らなかった。」(46・12・28検面)と述べているなど、被告人らがその本を見たことを肯定しているにしても、その時期、検討した状況などは、被告人らの供述によっても確定し難い。まして、被告人らの自白供述によっても、この時期に、いわゆる爆弾闘争の意義・目的などについて話し合いあるいは合意がなされていたとは認められない。

エ 四六八〇車の入手経緯に関する被告人須藤の供述に客観的事実に対比して不自然な点があること

検察官は、四六八〇車の入手経緯について、「被告人桐野らが同年七月下旬に三里塚闘争に使用するため、中古自動車販売業者から車検証の有効期限が一〇月までしかないものを、三万円で購入したものである。」と被告人らが主導的に同車を購入したかの主張をし、被告人須藤の供述中には「桐野が京都の高瀬に車の世話を依頼した」旨の供述もあるが(46・12・10員面、同12・23員面、同12・25検面)、江里重之及び藤野興一の検察官に対する各供述調書など客観的証拠によれば、同年六月下旬ころ、アジア経済研究所の井村哲郎が吉祥寺ウニタ書店の藤野興一に対して安い車の入手方の相談をもちかけ、右藤野において、吉祥寺の双葉自動車販売の江里にこれを打診したうえ右井村を江里に紹介し、同年七月初旬には、井村において四六八〇車を注文し、代金支払のみが遅延していたという事実が認められ、他方、被告人桐野、同須藤及び二瓶らが京都の高瀬のところに赴いて同人から車の代金分として三万円を受け取ったのは同年七月一八日ころで、その際に初めて前記井村と連絡をとるように言われ、帰京後、井村と連絡をとったところ、同車の名義人となるように言われたという事情が窺われ、これらの点に照らすと、むしろ、右高瀬、井村らにおいて前もって四六八〇車購入の手配をしたうえで、三万円を被告人らに託したとみ得る余地がある(なぜなら、もし事前に被告人らにおいて車の手配を頼んでいたとしたなら、少くとも七月初旬の段階で高瀬ないし井村から四六八〇車に関する具体的連絡が被告人らにあるのが当然と思われるからである。)。

したがって、検察官の前記主張及びこれに沿う被告人須藤の供述部分には疑問があると言わざるを得ない。なお、同被告人が桐野の高瀬への依頼時期を六月下旬から同月中旬へと供述を変更している(46・12・10員面、同12・23員面)のも不自然である。

(3) 本件の謀議、下見、爆弾の入手状況関係

検察官は、本件の謀議、下見、手製爆弾の入手状況について、大要、「昭和四六年七月二九日に被告人岩渕方に被告人桐野、同須藤、同岩渕、外狩及び二瓶が集まり、被告人桐野が、爆弾は滝田を通じて入手できるから爆弾闘争を決行しようと提案し、被告人須藤及び二瓶がこれに賛成したが、被告人岩渕は難色を示し、外狩は反対して郷里へ帰省した。八月一日ころ、被告人岩渕方に被告人桐野、同須藤、同岩渕及び二瓶が集まり、爆弾の仕掛け先は三里塚と都内の権力の最高機関とし、都内の仕掛け先は二瓶が被告人福冨の案内で下見をし、被告人桐野、同須藤が爆弾を入手することに決めた。そこで、八月二日夜、被告人福冨と二瓶は、四六八〇車で総監公舎の下見をし、同公舎の警備が最も手薄であることを確認した。また、被告人桐野、同須藤は、八月三日から四日にかけて京都へ行き、北白川のアジトで爆弾二個を入手して帰京した。八月四日、被告人桐野は入手した爆弾二個を被告人岩渕に預けた。同夜、被告人岩渕方に被告人福冨、同桐野、同須藤、同岩渕、二瓶及び佐藤が集まり、爆弾の仕掛け先としては都内では総監公舎とし、三里塚(成田)は佐藤に一任することとして、東京、成田共に八月七日午前一時に仕掛け、同二時に爆発させることとし、総監公舎に仕掛ける役は二瓶、四六八〇車で二瓶を送迎する役は被告人福冨、曙橋付近で待って別の車で逃走させる役は被告人須藤とし、被告人桐野は『十月社』で結果報告を待つことなどを決めて、爆弾一個は佐藤が持ち帰り、他の一個は被告人福冨が持ち帰った。」旨を主張している。

しかしながら、右の状況に関する被告人らの供述には、次のような問題点がある。

ア 被告人須藤、同岩渕及び二瓶の供述中に客観的には帰省中の外狩が謀議に出席していた旨の供述があること

本件は、いわゆる共謀共同正犯であって、謀議の状況、特に謀議への出席者が誰かという点は重要であるが、被告人須藤、同岩渕及び二瓶の供述中には、客観的には同年七月三〇日以降愛知県の郷里に帰省していたことが明らかな外狩について、その後に行なわれたとされている謀議に出席していた旨を述べている部分があり、更に、捜査官において外狩の帰省の事実が確認されたのちに、実は不在であった旨の供述変更がなされているなど、極めて不自然な供述がある。

即ち、被告人須藤は、46・12・10員面、同12・15検面及び同12・16員面において、謀議が行なわれたとされている八月一日及び同月四日の両日ともに外狩が出席していた旨を述べ、中でも八月一日については外狩は被告人岩渕とともに消極意見であったが結局決行することになった旨の供述をしながら(46・12・10員面)、その後、46・12・23員面で右両日について「外狩はいなかったように思う。」と供述を変更している(46・12・24検面も同じ)。

また、被告人岩渕も、46・12・21員面及び同12・23検面において、右のうち八月一日の謀議に外狩が出席していた旨を述べ、特に、外狩と被告人岩渕の反対にも拘らず決行が決ったと供述しながら、その後、46・12・29検面で「外狩は出席せず、岩渕のみが反対であった。」旨の供述に変えている。

右のような供述の変更は、同年一二月二〇日すぎころ司法警察員川原洋らが外狩の郷里へ赴いて帰省の事実を確認した結果と思われるが、問題は、それ以前に客観的事実と明白に齟齬する事項、特に重要な事項について、二名もの者が虚偽の供述をしていたという点にある。しかも、被告人須藤や同岩渕については、外狩が消極意見であった旨など具体的事実を指摘していたにも拘らず変更しているもので、謀議の存在に関する供述すら疑いを抱かざるを得ないことになる。そして、これらの供述の変遷が内容的、時期的に同様のものであるが故に、警察段階において誘導的取調べがあったのではないかとの疑問が生ずる。

イ 謀議の経緯に関する被告人らの供述が相互に一致しないこと

謀議への出席者とともに、謀議の経緯も、共謀共同正犯においては重要であるが、この点に関する被告人らの供述も区々である。

即ち、七月末の話合いについて、二瓶は、「岩渕、外狩の消極論を抑えて決行を決めた。」旨を述べ(46・12・14員面、同12・15検面、同12・16員面、同12・23検面)、被告人須藤は、当初「爆弾製造を福冨に頼むことになり、油絵具の缶を岩渕宅に届けた。」(46・12・9検面)とか、「薔薇の詩を見て爆弾を製造し、それを仕掛ける話が出た。」(46・12・10員面、同12・16員面)とか述べていたが、後に、「爆弾闘争の話が出たが、岩渕、外狩の消極論で結論が出なかった。」旨を述べている(46・12・25検面)。他方、被告人岩渕は、「爆弾の話は出なかった。」旨を述べている(46・12・27員面、同12・29検面)。なお、外狩は、「外狩、岩渕の反対を押し切って決行が決った。」旨を述べている(46・12・23員面、同12・24検面)。

そして、八月一日の話合いについては、二瓶は、「福冨と二瓶が下見に行くことと桐野と須藤が爆弾入手のため京都に行くことを決めた。」旨を述べ(46・12・15員面、同12・16員面、同12・23検面)、これに対し、被告人須藤及び同岩渕は、「この日に岩渕らの反対論を押し切って決行が決まり、下見と京都行きも決った。」旨を述べている(須藤46・12・15検面ほか、岩渕46・12・29検面ほか)。

結局、それぞれ供述が区々であって確定し難い状況となっている。

ウ 八月二日の下見に被告人福冨が参加するに至る経緯に関する被告人らの供述がないこと

二瓶のほか、被告人須藤及び同岩渕も、八月二日に被告人福冨が総監公舎へ下見に行くことになった旨を述べているが、極めて重大な爆弾使用闘争についての話合い、合意も経ずに、一方的に被告人福冨に下見の役を与えるというのは、唐突であり、かつ、不自然である。当然その前提として、被告人福冨がどのような経緯で爆弾使用闘争に参加するようになったのかについて、説明がなされている供述があってもよさそうであるが、被告人らの供述中にこれを見出すことができない。この点に関する疑問は、八月四日の謀議への被告人福冨及び佐藤の突然の参加や、さしたる話合いもないまま佐藤が成田でも爆弾を使用することを決めたことなどについても同様のことが言える。

エ 八月三日、四日の本件爆弾入手のための京都行きに関する被告人須藤の供述が客観的事実に照らして不自然であること

被告人須藤は、「八月三日午後五時三〇分ころ、東京駅で桐野と落合って京都へ行き、銀閣寺付近のアジトで爆弾を入手して、翌四日午後二時ころ東京駅に着いた。」旨を述べているが(46・12・10員面、同12・15検面、同12・24検面など)、客観的証拠によれば、被告人桐野が、八月三日に新宿区内の「淀橋歯科」において抜歯手術を受けたこと、翌八月四日にその治療処置を受けたこと、被告人須藤が八月四日に自宅付近の北区にある「加瀬ガソリンスタンド」に車のパンク修理を頼みに行ったこと(時刻については正午以前という可能性が十分にある。)が認められ、右両被告人がこれらの行動をとりながら、東京、京都間を往復することは非常に困難であり、少くとも被告人須藤の供述中に右のような特異な事情についての供述があってもよさそうであるが、同被告人は、47・1・5員面で「八月三日京都行きの車中で、桐野が歯が痛いと言っていた。」旨を述べるのみで、歯医者にかかっていることについては何ら触れていない。

なお、被告人須藤の爆弾の入手先に関する供述に関しては、極めて重要な事項であるにも拘らず、裏付証拠が得られていない。

オ 本件爆弾の形状などに関する被告人らの供述(図示)が不明瞭でかつ客観的状況と異なること

爆弾使用という特異で非日常的な犯行に加担した者であれば、自ら目撃した爆弾については、一応その形状を記憶しているものと想定されるが、被告人らのこの点についての供述は、不明瞭で、かつ、客観的形状と異なっている。

即ち、八月四日謀議の席で目撃したはずの被告人岩渕の図示は、およそ、本件の爆弾とは形状を異にするものであり(46・12・21員面、同12・22員面、同12・23検面)、また、爆弾を仕掛けたとされる二瓶にしても、当初の図示は、タイムスイッチの位置が実際のものとは異なっており(46・12・13員面(二))、その後の供述、図示も、配線状況や二つの火薬入りの缶の爆発態様などが客観的状況と異なっている(46・12・15員面、同日付検面)。更に、京都でその使用方法について説明を聞き、八月四日の謀議の際に、他の者にこれを教えたとされている被告人須藤の供述、図示も、右二瓶の後者の場合と同様、配線状況や二つの火薬入りの缶の爆発態様などが実際のものと異なっている(46・12・10員面、同12・15員面、同12・16員面、同12・24検面)。

その他、使用方法に関する被告人須藤及び二瓶の供述の問題点は前述したとおりである。

(二) 自白調書の信用性について

以上の被告人らの捜査段階における供述の検討を踏まえて、当裁判所が事実の存否を判断する資料として取り調べた前掲自白調書の信用性について検討する。

(1) 被告人らの自白調書の内容に関する問題点

前記(一)においては、検察官の主張する事実に沿って、被告人らの具体的供述内容を検討したが、その内容に関する問題点を要約すると、次の諸点を指摘できる。

ア 供述内容に一貫性がなく、不自然な変遷が多いこと

被告人らの供述の内容に変遷が非常に多いことは、既に述べたとおりであるが、内容的にも、不自然な変遷が多い。

特に、客観的には不在であることが明らかな外狩についての謀議出席状況に関して、被告人らのうちの複数の者が内容、時期をほとんど同じくして供述を変遷していること、本件爆弾の容れ物、曙橋付近における所持品、エッソ関町給油所における給油状況などに関する二瓶の供述が著しく変遷し、しかもその変遷が当時収集されていた客観的証拠に合う方向で度々変更になっていることなどは、供述者の自発的な供述変更とは到底みられず、警察における捜査の過程で誘導的な取調べが行なわれたのではないかとの疑問が生ずる。

また、二瓶の供述については、取調官が変わると供述内容が変わることがあり、例えば、司法警察員北岡均作成の46・12・18員面は、それまでの同西海喜一作成の員面とは内容を著しく異にするものであり、同渡邉吉男作成の46・12・20員面(二)も、それまでの右西海作成の員面とは内容を異にするところであり、取調官の誘導的取調べ、あるいは二瓶の迎合的供述態度が窺われ、いずれにしても不自然な供述の変遷となっている。

イ 供述内容が相互に一致しない場合が非常に多いこと

本件の場合、犯行当日の状況について自供している二瓶と被告人須藤の供述内容に一致しない点が多い。例えば、八月六日夜「ニユートップス」で落ち合った趣旨・状況、曙橋付近における待機の趣旨・状況、犯行後「十月社」付近における須藤車の乗降者、四六八〇車の貸与をめぐる問題など、当日の重要な事項について、供述が一致していない。そして、いずれの点についても、供述の変遷を伴っていることが多い。また、謀議の経緯に関しても、被告人らの供述は区々である。これらの点は、犯行に加担した者であれば、おおむね一致してもよさそうな事項であり、その不一致は不自然である。

ウ 真犯人であれば当然説明し得る客観的事実につき、不明瞭な供述やこれと齟齬する供述が相当みられること

本件の場合、爆弾使用事犯であるから、真犯人であれば、当該爆弾の性状、使用方法については当然正確な知識を有しているはずであるが、前述したとおり、この点に関する被告人らの供述は、単に不明瞭であるにとどまらず、客観的性状と異なる供述内容となっている。特に見逃せないのは、本件爆弾の表示灯(豆電球)の点灯に関する二瓶及び被告人須藤の供述であり、中でも二瓶の「爆弾セットの際に表示灯が点灯した。」旨の供述(46・12・16員面)は、果して二瓶が真犯人であろうかという疑問を抱かせる問題供述である。

また、客観的には帰省中で不在であった外狩について謀議に出席していた旨の供述が、被告人ら二名から出ていることも極めて不自然で、謀議そのものの存在についても疑問を生じさせることになる。

エ 被告人らの供述が目撃証人の供述と矛盾する点が多いこと

本件に関しては、何人かの犯人又は犯人らしき者についての目撃証人がいるが、それらの目撃証人の供述(捜査段階における供述も含む。)内容と、被告人らの供述内容とが、被告人らが真犯人であれば一致してもよさそうな事項について、これが一致せず、あるいは矛盾する場合が多い。例えば、証人髙橋賢蔵の供述によるコロナ車の運転者の発言内容、証人東郷隆興の供述によるコロナ車の表参道出発時刻等、証人杉本洋子や本橋ヒデ子の供述による被告人福冨の服装などの点については、右目撃証人の供述内容と被告人ら、特に二瓶の供述内容が一致していない。また、証人髙橋賢蔵の供述によるコロナ車の運転者の人相、証人関昭夫の供述による犯人の髪型、証人杉本洋子の供述による曙橋付近で見かけた二人の人物の人相などについては、右目撃者の供述内容と被告人ら、特に二瓶の供述によってそれぞれの行為をしたとされる人物の人相などが相互に一致せず、矛盾している。

オ 供述内容自体に不自然、不合理な点がみられること

本件の場合、犯行の動機、五月二六、二七日の爆弾闘争の提案及び下見の経緯、六月の「薔薇の詩」による爆弾「製造」の検討、四六八〇車の入手経緯、四六八〇車の第三者への貸与をめぐる問題、所有者などが容易に判明するような右四六八〇車の本件犯行の際の使用、犯行直前の表参道行き、爆発予定時刻の遅れなどの諸点について、被告人らの供述を前提にしても不自然、不合理な点がみられる。

カ 証拠上明らかな事実について被告人らの供述中に説明がないこと

本件被告人らについては、客観的証拠によれば、少くとも、八月一日午後八時すぎころ、被告人桐野が知人の鴻巣泰三(福田善之)の母親の通夜に出席するために都内千代田区飯田橋にある警察病院に赴いたこと、同月三日及び四日に、同被告人が新宿区内の「淀橋歯科」において抜歯手術及びその治療処置を受けたこと、同月四日、被告人須藤が北区内にある「加瀬ガソリンスタンド」に車のタイヤのパンク修理を頼みに行ったこと、同月六日午後九時一六分から同一〇時三一分までの間、同被告人が新宿駅東口駐車場に自宅の自動車を駐車していたことなどが認められる。これらの事実は、当該被告人につき、検察官主張の事実に関して、いわゆるアリバイになる可能性のある事実であるが、その点はともかく、これらの点は客観的な事実であるから、少くとも被告人らの供述中に、当日の行動の説明の流れの中で表われてもよさそうであるが、何らこれらの点についての説明は見出せない。

キ 自白内容について客観的裏付証拠が欠けていること

本件においても、被告人らの自白があるにも拘らず、これについての客観的裏付証拠が欠けている。例えば、爆弾の入手先とされる人物、四六八〇車の購入経緯に関する高瀬泰司や井村哲郎、四六八〇車の貸与に関連する山瀬一裕、本件当夜四六八〇車に乗車したとされる石井新二や小川了など、本件に関する重要な人物について、供述に対応する裏付証拠が何ら得られていない。

ク いわゆる秘密の暴露に当たるものがないこと

検察官は、本件に関しても、六点にわたり秘密の暴露に当たると主張しているが、いわゆる秘密の暴露に当たるというためには、それがあらかじめ捜査官の知り得なかった事項で捜査の結果客観的事実であると確認されたものであることを要すると解されるが、検察官の主張する六点についてみると、①「爆弾の入手先」に関する被告人須藤の供述については、その人物が特定されていないので客観的事実であるとの確認ができず、②いわゆる「起爆・誘爆」に関する被告人須藤の「びん形の缶が先に爆発を起し、その爆発力によってもう一つの缶が誘爆する」旨の供述については、前述したとおり、起爆・誘爆というより、二個の缶とも爆発能力を有しており、ただグラスター缶の方が先に爆発するというもので、必ずしも客観的事実に合致しているとは言えず、反面、点火機構に関する鑑定結果は、一〇月段階で出来ているので(警視庁技術吏員金木吉次作成の46・10・11鑑定書)、捜査当局においてあらかじめ一方が先に爆発するという点を知り得ない訳ではなく、③「時限装置の操作方法」に関する二瓶の供述については、前述したように、供述内容自体不自然な内容であって、検察官主張のように二瓶が誤解した結果の操作方法とは確認できず、④いわゆる「よじり結線」に関する被告人須藤の「仕掛けるときはタイマーから出ている線とびん形の缶の口から出ている線をつなぐ。」旨の供述についても、証拠物を領置している捜査当局において右の点は十分に知り得る事項であるし、かえって同被告人の供述中には、表示灯の点灯状況などについて本件爆弾の客観的性状とは異なる供述をしている部分があり、これらの事情をも併せ考えると、同被告人の供述が客観的事実に合致しているとは言い難く、⑤二瓶の「本件当夜、福冨方から青梅街道を新宿へ向う途中、阿佐ヶ谷付近で警察官が大型トラックによる交通事故の処理をしていた。」旨の供述についても、捜査官である西海喜一において事前に右交通事故の発生を知らされていたもので(証人西海喜一第九三回ほか)、二瓶の供述によって初めて知ったとは言えないうえ、客観的証拠によれば、右事故は同夜午後一〇時二五分ころ発生したことが明らかであって、当然福冨宅への往路においても右事故を目撃してもよさそうなのに、その点についての供述がなく不自然であり、⑥「曙橋下の『空地』における待機」に関する被告人須藤の供述についても、前述したとおり同所で一時間余り待機していたにしては、不正確で客観的形状とは一致しない内容であって、結局、いずれの点についても、秘密の暴露に当たるとは言い難い。

(2) 被告人らに対する取調べの経緯、方法に関する問題点

本件の被告人らに対する取調べ、特に自白に至る取調べの経緯、方法に関して、次のような問題点がある。

ア 犯人特定に関する客観的証拠が乏しく専ら自白に頼る捜査であったこと

前述したように本件爆取事件については、事件発生以来、犯人特定に関する客観的証拠は乏しく、車両関係から被告人らが捜査線上にあがってはいたが、被告人らの身柄を逮捕できるまでの資料もなく、結果的に別件の窃盗事件による被告人らの身柄拘束中に、本件爆取事件の自白を得るという捜査が行なわれ、結局、その間の被告人須藤及び二瓶の自白に基づいて本件爆取事件の捜査が進展し、起訴されるに至ったというもので、その後現在に至るまで被告人らの自白以外に特段の客観的証拠はない。

他方、自白内容についての客観的裏付捜査については、前述したとおり甚だ不十分であって、重要な参考人について裏付け捜査を欠くなど事案の真相を究明するに当たって困難を来たしている。

イ 別件の窃盗事件による身柄拘束中に司法警察員により本件爆取事件について極めて法定刑の低い火薬類取締法違反の嫌疑による取調べが行なわれ、その過程で利益誘導的な取調べが行なわれた結果被告人らが自白するに至った疑いがあること

二瓶は、別件の窃盗事件により昭和四六年一一月二七日に起訴され、以後同罪による起訴後の勾留中であったもの、被告人須藤は、同年一二月八日同罪で起訴され、以後同罪による勾留となったものであるが、右両名とも、右窃盗事件の勾留中に、被告人須藤は一二月七日に、二瓶は一二月一二日に、いずれも本件爆取事件について火薬類取締法違反の被疑罪名による取調べの際に自白をしている。

その経緯については、被告人らにおいて、種々主張がなされているが、客観的証拠や捜査官の供述によっても、少くとも次のような事情が認められる。

即ち、被告人須藤については、同被告人の取調べに当たった証人小出英二(第一四三回ないし第一四七回)、同田中克彦(第一四八回)及び同松永寅一郎(第一四九回ないし第一五四回)の供述部分等によると、同被告人が初めて本件爆取事件について自白をした一二月七日の取調べの際、まず、右小出において同被告人に対して火薬類取締法が登載されている「警務要鑑」を示して同法部分を見せたこと、そして、同被告人が総監公舎事件関係の話をし始めたところで、捜査主任官である右松永寅一郎が来て取調べを交替し、その結果火薬類取締法違反の被疑罪名により総監公舎に爆弾を仕掛けることに加担した旨の自白調書が作成されたこと、同調書中には「今まで話ができなかったのは、二瓶や福冨からこの罪は爆発物取締という法律でやられ無期刑になると聞いていたので、恐しくて話せなかった。ところが本日の調べでは火薬取締という法律で爆発物取締ではないということなので話すことにしたのです。早く調べを終らせて一日も早く帰して頂きたいと思いますので、寛大な処分をお願いします。」という供述部分があること、更に、同調書末尾に「被疑者の申立てにより調書に割り指印をさせた。」旨の記載があって、現に同調書には被告人須藤の指印による契印があることなどの事実が認められる。以上の事実に照らすと、同日の取調べに際して、被告人須藤に対し、捜査官において、死刑又は無期若しくは七年以上の懲役又は禁錮刑まである爆発物取締罰則(第一条)と罰金刑も含まれているような極めて法定刑の低い火薬類取締法違反との差異を示したうえで、総監公舎事件について自白を求め、その結果自白を得たことが窺われ、更に、異例の被疑者による契印の事実に照らすと、捜査官の意図はともかく、少くとも、被告人須藤においては火薬類取締法違反という軽罪による処分の約束を得たと受けとめた余地があると言わざるを得ない。結局、右のような取調べは、非常に軽い罪による利益誘導的な取調べとの疑いが生じ、そのような取調べによって得た自白については、任意性についても問題があるが、少くとも信ぴょう性は肯定し難い。(なお、この点に関し、捜査官である証人松永寅一郎らは、当時本件爆弾についての鑑定が未了で、爆発物か火薬類か断定できなかったためと述べるが、関係証拠によれば、むしろ、本件発生当初より爆発物との前提で捜査が進められていたことが窺われるのであって、右松永らの供述は信用できない。)

次に、二瓶についても、同人の取調べに当たった証人西海喜一の供述部分(第八四回ないし第九四回)によれば、同人に対する火薬類取締法違反の被疑罪名による取調べの際、被告人須藤の場合と同様に同法の条文を二瓶に示して爆発物取締罰則違反との差異を説明したことが認められ、右事情に照らすと、やはり、軽罪による利益誘導的な取調べにより自白を得たのではないかとの疑いを生ずる。なお、同人の最初の自白調書である46・12・12員面(三)は、その内容が前述したように後に著しく変遷しており、その意味でも右のような取調べには問題があると言わざるを得ない。

他方、被告人岩渕については、火薬類取締法違反による取調べは行なわれたが、その際に自白はなされていない。しかしながら、同被告人についても、その取調べに当たった証人松永鐵美の供述部分(第一三九回ないし第一四一回)によれば、同被告人が本件について初めて自白をした一二月二一日の取調べに際して、右松永鐵美において、「桐野以外は話している。」旨を告げていることが認められるほか、同日の員面調書中には「取調官から色々話され共犯者の人達が心から反省していることを聞いて、私も一刻も早く非を改めて社会復帰したい。」という旨の供述部分もあり、以上の点に照らすと、他の共犯者が自白したことを告げることによる心理的な自白の誘導がなされた疑いを否定できない。

なお、被告人須藤と二瓶については、警察において、その後も一二月一五日まで、同様の火薬類取締法違反による取調べが続けられて、変遷を経ながらも総監公舎事件に関する基本的な自白調書がほとんど作成され、同日爆発物取締罰則違反により改めて逮捕がなされた以降は、右火薬類取締法違反の供述調書の内容をそのまま踏襲したものが作成された(中には文言が一字一句同じものもある。)ほか、事項によっては前述したとおりの供述の変更がなされている。

ウ 検察官の取調べなどにおいても警察段階における被告人らの自白が維持、踏襲されたとみられること

右のように、被告人ら、特に被告人須藤及び二瓶に対する総監公舎事件の取調べが警察において火薬類取締法違反という被疑罪名により進められ、その間に同事件に関する基本的な自白調書がほとんど作成されたという事情が認められる一方、本件爆取事件の主任検察官(山本達雄検事)において、警察における火薬類取締法違反による取調べを知り、問題があるとして注意をしたうえ、一二月一五日、爆発物取締罰則違反の逮捕状執行直前に、右二瓶につき山本達雄検事が、また被告人須藤については久保裕検事が、それぞれ異例の取調べを行なったものの(証人山本達雄第一六三回ないし第一六八回、同久保裕第一六〇回ないし第一六二回)、前記のような事情のもとで、二瓶及び被告人須藤においても、警察段階における自白をほぼ維持、踏襲したことが認められ、その後の被告人らの取調べについても、警察段階における取調内容が検察官の取調べにおいて基本的に維持、踏襲されたと言い得るものである。

なお、前記二瓶の自己の第一審公判調書(第二回)中の本件犯行を認める趣旨の供述部分についても、前記第二、二、4(二)(2)エの窃盗事件に関して述べたところと同様の事情のもとで、二瓶において自己の第一審判決を前にして、捜査段階における自白を結局維持、踏襲したものとみられる。

(3) 当裁判所が事実の存否の判断資料として取り調べた自白調書の信用性について

当裁判所が本件爆取事件の事実の存否の判断資料として取り調べた前記被告人らの検察官に対する供述調書及び公判調書中の供述部分の信用性については、先に検討したとおり、窃盗事件の場合と同様、いずれもこれに先行する警察段階における多数の供述調書や自供書が存在し、これらについては、右の検討のように、その内容に関して多くの問題点があるばかりでなく、被告人らに対する取調べの経緯、方法に関しても右のとおり重大な問題点があって、その自白内容についての信用性に重大な疑問があるところであり、結局、これらを維持、踏襲したとみられる前記の被告人らの検察官に対する供述調書及び公判調書中の供述部分の中の自白についても、やはりその信用性に乏しいと言わなければならない。

5  いわゆるアリバイ関係について

(一) 弁護人らの主張

弁護人らは、本件爆取事件に関して、次のようないわゆるアリバイ事実の存在を主張しており、これに関して、それぞれ以下のような証拠がある。

(1) 昭和四六年七月二九日(検察官主張による被告人岩渕宅における爆弾闘争話合いの日)関係

被告人岩渕は、当時毎週木曜日夜松村重紘という人に杖術を習っており、右七月二九日も木曜日であったので、同夜も、いつものとおりその稽古に出かけていて在宅していなかった。

これに沿う証拠としては、被告人岩渕の供述のほか、証人岩渕和恵の供述部分(第一八四回)がある。

(2) 同年八月一日(検察官主張による被告人岩渕宅における爆弾闘争謀議の日)関係

ア 被告人桐野は、同日夜、東京都千代田区飯田橋にある警察病院でかねて知合いの鴻巣泰三(劇作家福田善之)の母親の通夜があったので、「十月社」から自宅に帰って服を着換えたのち、被告人岩渕宅に立寄って喪章(腕章)を借り、同病院に赴いて右通夜に参列した。

イ 被告人須藤は、被告人桐野を自己の車に乗せて右「十月社」から同病院まで同行し、同病院付近の喫茶店で右桐野を待っていた。

右ア、イの点に沿う証拠としては、被告人桐野、同須藤及び同岩渕の各供述のほか、証人鴻巣泰三(第一七四回)、同福冨エミ子(第一八〇回)及び同岩渕和恵(第一八四回)の各供述部分がある。

ウ 被告人岩渕は、同日夕刻自宅に来た被告人桐野に喪章一個を貸与したのち、夫婦でバー「淵」に出かけ、午後七時ないし七時半ころ同店について、その後来店していた客の竹田賢一と武術談議をしたりして時間を過ごし、午後一一時ころ店を出た。

これに沿う証拠としては、被告人岩渕、同桐野及び同須藤の各供述のほか、証人竹田賢一(第一七七回)、同鈴木公子(前同回)及び同岩渕和恵(第一八四回)の各供述部分、並びにバー「淵」の売上伝票(同号の六)等がある。

(3) 同年八月三日及び四日(検察官主張による爆弾入手のための京都行きの日及び被告人岩渕宅における謀議の日)関係

ア 被告人桐野は、同月三日午前、東京都新宿区西新宿にある「淀橋歯科」において抜歯手術を受け、翌四日午前にはその治療処置を受けており、京都に行けるような状態ではなかった。

これに沿う証拠としては、被告人桐野の供述のほか、証人福冨エミ子の供述部分(第一八〇回、第一八二回)、証人辻塚智子に対する受命裁判官の尋問調書、医師辻塚智子作成の「証明書」と題する書面及び治療状況報告書(同意部分)、アオキ薬局名義の領収書(八月三日付のもの)、並びに診察券等がある。

イ 被告人須藤は、同月四日午前中、同都北区内にある「加瀬ガソリンスタンド」に行って自動車のタイヤのパンク修理を依頼し、午後早い時間に再度同スタンドに赴いて、右タイヤを受け取るとともに給油した。

これに沿う証拠としては、被告人須藤の供述のほか、証人加瀬君雄(第一七五回)、同室川幾久雄(前同回)及び同須藤由太郎(第一七九回、第一八二回)の各供述部分、「加瀬ガソリンスタンド」の受領書綴り三冊、並びに売上伝票及び請求書(支払明細書)綴り一冊がある。

ウ 被告人岩渕は、同月四日午後五時三〇分ころ、東京都内沼袋にある国分葉子(現在中尾葉子)のアパートに行き、同女の引越しの手伝いをして、同日午後一一時すぎころバー「淵」に着いた。

これに沿う証拠としては、被告人岩渕の供述のほか、証人中尾葉子(第一七六回)及び同栗橋猛夫(前同回)の各供述部分、証人七崎さつきの当公判廷における供述(第一九七回)、貸室賃貸借契約書写一通、並びに古橋一雄名義の御礼状一通等がある。

(4) 同年八月六日(本件犯行当日)関係

ア 被告人桐野、同須藤及び二瓶は、同日夕刻から、国鉄新宿駅東口付近にある喫茶店「ニュートップス」で日大闘争当時の知合いである伊藤博司、後藤国雄と久し振りに会って歓談し、右五名は、午後一〇時三〇分ころ、新宿駅東口駐車場から被告人須藤の運転するフローリアンバン(練馬四四さ六七六九)に乗って同都新宿区十二社にある被告人桐野宅に行き、そこで暫く飲食などしたのち、更に同都中野区弥生町にある二瓶宅に赴き、そこにいた長谷川エミ子、佐々塚由美子を加え七人で翌七日午前一時三〇分ころまで談笑飲食し、その後、被告人須藤は、被告人桐野、右長谷川、伊藤及び後藤をフローリアンバンに乗せ、まず、被告人桐野、長谷川の二人を同被告人宅に送り、次いで伊藤、後藤を同都東中野の伊藤宅まで送ったあと、同日午前二時二〇分すぎに同都北区上中里の自宅に帰った。

これに沿う証拠としては、被告人桐野及び同須藤の各供述のほか、証人伊藤博司及び同後藤国雄の当公判廷(いずれも第一八六回)における各供述(但し、被告人桐野関係では各供述部分)、証人二瓶一雄(第二一回、第二二回、第二七回、第三〇回ほか)、同福冨エミ子(第一八〇回、第一八二回)及び二瓶由美子(第一八三回)の各供述部分、新宿駅東口駐車場名義の駐車票控写、並びにタイムカード写等がある。

イ 被告人福冨は、同月六日午後二時ころ新宿に出かけ、四六八〇車を返還したのち、午後一〇時ころ帰宅し、その後ずっと自宅にいた。

これに沿う証拠としては、被告人福冨の供述のほか、証人土屋和子の供述部分(第一八一回)等がある。

(5) 四六八〇車関係

被告人福冨は、同年七月二八日、四六八〇車を被告人須藤から借り受け、以後使用していたが、同年八月五日夜被告人桐野、同須藤が山瀬一裕に会ったところ、同人から「車を使いたい人がいるので電話してくれ。」と頼まれたので、被告人桐野において、指示された男に電話をして四六八〇車返還の段取りをつけ、被告人須藤において、その旨被告人福冨に連絡をとり、翌六日午後二時ころ、東京都新宿区内の喫茶店「タイムス」で、被告人福冨、同桐野が光森甫康、竹国友康に会い、同人らに同車のキーを引き渡し、以後同車の返還を受けていない。

これに沿う証拠としては、被告人福冨、同桐野及び同須藤の各供述のほか、証人山瀬一裕の当公判廷(第一八八回)における供述、証人土屋和子の供述部分(第一八一回)等があり、他方、証人光森甫康及び同竹国友康は、右の点について肯定する供述も否定する供述もしていない(第一九二回)。なお、二瓶の捜査段階の供述中には、前述したように八月六日午後に四六八〇車を第三者に引き渡したとするものが存在する(二瓶の46・12・9員面(二)、同12・18員面、同12・23検面)。

(二) 右主張についての判断

右のような弁護人らの主張について、前記各証拠等を検討すると、少くとも次の点が指摘できる。

(1) 昭和四六年八月一日に関しては、証人鴻巣泰三の供述部分(第一七四回)等によれば、被告人桐野が、同日午後八時すぎころには右鴻巣の母親の通夜に出席するために喪章服装などを整えて前記飯田橋にある警察病院に赴いたことが認められ、右事実に照らすと、同日被告人岩渕宅で開かれたとされる謀議の時刻が、被告人岩渕の46・12・23検面によれば午後七、八時から同九、一〇時ころとされ、被告人須藤(46・12・10員面、同12・24検面)や二瓶(同12・15、同12・16各員面)の供述によれば午後三、四時から同八時ころとされているので、前者の場合、被告人桐野の謀議出席は全く不可能であるし、後者の場合でも、通夜出席に際しては仕度などに多少の時間を要すると考えられるため、午後八時ころまでの謀議に出席することは事実上極めて困難と言わざるを得ない。なお、後者の場合、検察官主張のように謀議参加後通夜に出席することが全く不可能ではないにしても、同被告人は右謀議に際して主導的な立場にあったとされており、その同被告人が謀議直後にあるいはこれを中座して知人の通夜に出席したとすれば、自白している被告人らのうちの供述中にこの点が表われてもよさそうであるが、前述したように、この点について触れた供述がないのは不自然である。

また、右被告人桐野の通夜出席が客観的事実であるから、これに密接に関連する被告人須藤の行動も一概には否定できず、更に、被告人桐野に喪章を貸したのちバー「淵」に出向き、前記竹田賢一らと会って話などをしたとする被告人岩渕の行動も、知人とは言え第三者の供述によって一定の裏付けもあるので、これも一概には否定できないところである。

以上のような八月一日に関する諸事情に照らしても、同日に本件に関する謀議が果して行なわれたのか否かという点につき、相当の疑問があると言わざるを得ない。

(2) 同年八月三日、四日に関しては、検察官は、被告人須藤の自供に基づいて、被告人桐野及び同須藤が同月三日夕方東京を発って京都へ向い、爆弾を入手したあと、翌四日午後二時ころ東京駅に戻って来た旨を主張しているが、関係証拠によれば、被告人桐野が同月三日に前記「淀橋歯科」で抜歯手術を受け、翌四日もその治療処置を受けていること、及び被告人須藤が同月四日に前記「加瀬ガソリンスタンド」に自宅の車のタイヤのパンク修理と給油のために赴いていることが認められ、そして、被告人桐野の同月四日の治療処置については、その時刻を特定し得る客観的証拠はないものの、特に午後三時ころ以降(被告人須藤の46・12・15検面などによると、午後二時ころ東京駅に帰着した旨述べているのでその後治療可能な時間帯)であるとするような客観的証拠もなく、かえって、同被告人の同年九月以降の診察券によれば、同被告人が通常午前中に診療予約をしていたことも窺われるのであって、少くとも、被告人桐野が同月四日の午後三時ころ以前に治療を受けたという可能性は否定し難いところであり、また、被告人須藤が同月四日に前記ガソリンスタンドに行った時刻についても、同被告人と特段の利害関係を有しない証人室川幾久男が「午前九時か一〇時ころパンクの修理依頼に来て昼前後ころこれを取りに来た。」と供述している(第一七五回)ほか、これに沿う同被告人の署名である「ST」の記載のある同スタンドの伝票が存在し、右伝票の綴られている位置も同日分のほぼ真中あたりであるから、検察官のこの点に関する反論を考慮しても、少くとも被告人須藤が同日の昼前後ころ同スタンドに赴いた可能性は否定し難く、以上の点にかんがみれば、被告人桐野及び同須藤が同月三日から四日にかけて京都に爆弾を入手しに行ったか否かについても、大きな疑問があると言うべきである。

(3) 同年八月六日夜に関しては、被告人桐野、同須藤及び二瓶の行動につき、証人伊藤博司、同後藤国雄、同福冨エミ子及び同二瓶由美子が弁護人らの主張に沿う供述をしているところ、右の者らは、いずれも被告人らの友人及び近親者ではあるが、その供述内容は、被告人桐野宅、二瓶宅を訪れた経緯、状況などについて相当具体性があり、かつ相互に一致していて、その信ぴょう性は必ずしも否定し難く、また、被告人須藤のフローリアン車が同日午後九時一六分から同一〇時三一分までの間新宿駅東口駐車場に駐車されていることが客観的に明らかであって、右事実は、当夜の行動に関する証人伊藤、同後藤の各供述に沿うもので、以上の点に照らすと、検察官のこの点に関する反論を考慮しても、八月六日夜から翌七日にかけて、被告人桐野、同須藤及び二瓶が右伊藤、後藤とともに新宿から被告人桐野宅及び二瓶宅へ行き歓談していたという可能性は、一概には否定し難いところと言わざるを得ない。なお、検察官は、右の点に関する被告人ら及び右伊藤、後藤、福冨エミ子、二瓶由美子の供述は、いわゆるアリバイ工作に基づくものである旨の主張をするが、アリバイ工作に基づくものであれば、被告人らに対する取調の初期の段階において、犯行否認の根拠として各被告人から右に沿う供述が出てもよさそうであるが、そのような供述はないばかりか、客観的に明らかな新宿駅東口駐車場の駐車票の存在すら、被告人らの身柄逮捕後になって初めて明らかになったもので、いわゆるアリバイ工作の存在については疑問がある。なおまた、被告人須藤は、右駐車票の存在が捜査官側に明らかになったあとの47・1・12検面(一)で、「八月六日夜、フローリアンを新宿の駐車場にとめて『ニュートップス』で二瓶と会い、同人と別れてから、午後一〇時ころ車を右駐車場から出して道路脇にとめ、パチンコなどをして時間をつぶして、翌七日午前一時ころ曙橋に向った。右の関係で、当夜の午後一〇時ころ以降のアリバイをつくるために、後日、伊藤らに対して、当夜は『ニュートップス』から皆で一緒に桐野宅へ行き、その後二瓶宅に向ったことにして欲しいと頼んだ。」とアリバイ工作をした旨の供述をしているが、右調書中の被告人須藤の供述内容については、当夜「ニュートップス」で二瓶と会った時刻について従前「午後七時ころから八時すぎころまで」(46・12・7員面(二)、同12・9検面、同12・16員面、同12・22検面)と述べていたのに、これを事実上午後九時すぎから一〇時三〇分ころまでと大きく変更していること、佐々塚由美子の勤務について、客観的には当夜は夜勤ではなかったのに、これを夜勤であったと述べていること、同じ新宿付近にいてパチンコなどで時間をつぶすのに、わざわざ車を駐車場から出して路上に駐車させたとする点が不自然であることなどに照らすと、その供述内容の信ぴょう性は甚だ疑問であって、むしろ、当夜午後一〇時三一分に新宿の駐車場から車を出しているということは、新宿付近から離れるためであったとみるのが妥当であろうと思料される。

いずれにしても、本件犯行当夜の被告人桐野、同須藤及び二瓶の行動に関しても、アリバイの成立する余地があると言える。

(4) 本件前の四六八〇車の第三者への引渡し関係については、証人山瀬一裕が「八月四日か五日ころの夜、タイムスにおいて、三里塚で受け取った桐野あての車に関する伝言メモを同人に渡した。」旨を供述しており(第一八八回)、また、二瓶が、捜査段階で、変遷はしているものの、八月六日の午後に右四六八〇車を第三者に引渡す話があった旨を、前記第三、二4(一)(1)ケのように再三供述していること(46・12・9員面(二)、同12・18員面、同12・23検面)、同車の購入経緯、使用権限に関して、前述したように被告人ら以外の者、即ち前記高瀬、井村ら京都関係の者がむしろ主体的であったとみられ、もし同車の引渡しの話があれば被告人らの側でこれに応ずべき状況下にあったことなどの事情に照らすと、四六八〇車を本件前に第三者に引渡す話があったこと自体は、あながち否定できないところと言わざるを得ない。ただ、同車が、いつ、どこで、誰に引き渡されたかについては、被告人桐野及び同福冨の各供述以外に客観的証拠はないが、右両被告人が同車のキーを渡したと供述する前記光森及び竹国の当公判廷における供述態度に徴すると、右両被告人のこの点に関する供述につき全面的にその信ぴょう性を否定することもまた難しいところである。いずれにしても、四六八〇車が本件犯行の際まで被告人ら、特に被告人福冨の手元にあったか否かについては、疑問の余地があると言わなければならない。

なお、被告人福冨は、本件発生直後、司法警察員の事情聴取に対して「四六八〇車は、八月六日午後四時から六時ころまでの間、新宿コマ劇場付近に停めておいたときに盗まれた。」旨を述べているが(46・8・7員面など)、右供述は、当公判廷における同被告人の供述とは異なるものの、同被告人が、本件発生直後に、本件が誰によって敢行されたのかがわからず、また、誰に嫌疑がかかるかもわからないというような状況のもとにあったとすれば、前記のような盗難にあった旨の供述をすることも、あながち不自然とは言えない。

6  本件爆取事件の結論

以上、本件爆取事件については、これに関して当裁判所が取り調べた全証拠を検討しても、被告人福冨、同桐野、同須藤及び同岩渕らが本件爆取事件を犯したことを証明するに足る証拠はなく、かえって、被告人らの犯行とみるには疑問を抱かせるような消極的証拠もあり、いずれにしても、本件公訴事実については犯罪の証明がないことになる。

第四被告人福冨に対する犯人蔵匿被告事件

一  公訴事実

本件公訴事実は、「被告人福冨は、坂口弘・永田洋子が罰金以上の刑に該る強盗傷人等の罪を犯し逃亡中の者であることを知りながら、昭和四六年六月二五日ころ、右坂口弘・永田洋子を東京都渋谷区幡ヶ谷三丁目三八番五号第一幡ヶ谷マンション一〇二号の自室に宿泊させて蔵匿した。」というにある。

二  弁護人らの主張

弁護人らは、本件に関して、

(1)  犯人蔵匿罪を法定する刑法第一〇三条の規定は、刑罰による規制が広範囲にわたってはならず、濫用を許さない必要最少限度のものでなければならないとする罪刑法定主義の根本理念に反し、憲法第三一条に違反した無効のものである。

(2)  本件公訴の提起は、被告人福冨が専ら総監公舎事件の被告人であるという身分を有するため、総監公舎事件を有罪に導くための手段としてなされたものと考えられ、憲法第一一条ないし第一四条、第一五条第二項、第三一条、第九七条、刑事訴訟法第一条、検察庁法第四条に違反し、検察官の公訴提起するか否かについての裁量権の行使につき著しい逸脱があり、無効であるから、本件公訴は刑事訴訟法第三三八条第四号により棄却されるべきである。

(3)  本件において、被告人福冨は、当夜泊めた者が刑法第一〇三条に規定されている「罰金以上ノ刑ニ該ル罪ヲ犯シタル者」であることの認識を欠いており、右の者らに一晩だけ泊めて欲しいと言われ、断わる理由もないので特に気にもとめずこれを承諾したに過ぎず、同被告人の行為は、同条の構成要件に該当しない

旨を主張しており、被告人福冨も、右(2)、(3)に沿う供述をしている。

三  証拠関係《省略》

四  当裁判所の判断

1  刑法第一〇三条の合憲性について

弁護人らは、刑法第一〇三条が憲法第三一条に違反するとし、その理由を種々述べているが、それらの主張を考慮しても、刑法第一〇三条の規定には刑罰の対象となる構成要件が明記されており、同条が憲法第三一条に違反するとは言えない。

2  公訴権濫用の主張について

本件公訴事実については、前掲各証拠によれば、被告人福冨に犯罪の嫌疑が存在したこと自体は是認できるところであり、弁護人らの主張する諸事情を考慮しても、本件公訴の提起が著しく妥当性を欠くほど不当なものであるとは言い難く、この点についての弁護人らの主張は採用できない。

3  犯人蔵匿罪の成否について

(一) 犯人蔵匿罪が成立するためには、被告人において、行為の対象者が「罰金以上ノ刑ニ該ル罪ヲ犯シタル者」であることを認識して、その者を「蔵匿」することを要するものであるが、以下、本件において、被告人福冨に右のような認識が存在したか否か、また、同被告人の本件行為が右にいう「蔵匿」行為に該るか否かについて検討する。

(二) 前掲各証拠によれば、本件に関しては、次のような客観的事実が認められる。

(1) 昭和四六年二月一七日、栃木県真岡市内の塚田銃砲店で猟銃などが強奪されるという強盗傷人事件が発生し、警視庁特別捜査本部においては、同事件の犯人として同年三月二日にいわゆる「京浜安保共闘」の構成員である坂口弘、永田洋子、雪野建作らを全国に指名手配し、同月及び同年五月には右の者などの写真入り手配書合計数十万枚を全国に配布、掲示したこと

(2) 同年四月下旬ころ、右「京浜安保共闘」の構成員である大槻節子、中村愛子らが、前記桐野の紹介で公訴事実記載の被告人福冨方に二、三日宿泊したことがあり、被告人福冨においても、会話などから右大槻、中村らが「京浜安保共闘」の関係者であることは認識していたこと

(3) 同年六月二〇日ころ、右大槻及び前記雪野建作の二名が被告人福冨方を訪れたが、同被告人が不在であったため、同被告人の当時の妻福冨和子に四、五日後に又来る旨を伝えて辞去したこと

(4) 同月二五日午後三時ないし四時ころ、右雪野建作、坂口弘、永田洋子及び牧田滋子(当時目黒滋子)の四名が被告人福冨方を訪れ、同被告人が帰宅していなかったため同所でその帰宅を待ち、同日午後七時ころ同被告人が帰宅したのち、右四名の者は、それぞれ偽名で自己紹介し、その後、主として右永田が同被告人と「朝日ジャーナル」誌に載った「京浜安保共闘」関係の記事ほかについて若干の話をしたこと

(5) 同日午後八時ころ、同被告人の知人である杉岡博隆が来宅し、同被告人は同人と二、三十分間位話をしていたこと

(6) その後、右雪野は同被告人宅から退去したが、残った永田、坂口、牧田が同夜一泊させて欲しい旨を申し出たため、同被告人において妻和子の同意を得て、これを承諾したこと

(7) 被告人福冨は、右の承諾をしたのち、同日午後九時ころから同午後一二時ころまで外出したが、その間右永田、牧田らは入浴したのち、福冨和子と女性問題などについて話をしたこと

(8) 翌同月二六日朝、前記坂口、永田、牧田の三人は、早々に同被告人宅を退去したこと

(三) 以上の事実を前提にして、被告人福冨において宿泊した者が「罰金以上ノ刑ニ該ル罪ヲ犯シタル者」であることを認識していたか否かについて検討する。

まず、前掲各証拠及び前記客観的事実によれば、

(1) 被告人福冨は、本件当日、前記坂口、永田をはじめ雪野、牧田とは全くの初対面であり、同人らの訪問には特段の紹介者がいたわけではなく、同人らの訪問者としての立場は、以前宿泊したことのある前記大槻節子の関係者、即ち「京浜安保共闘」の関係者という程度のものであったこと

(2) 本件当日、永田においては、前歯を矯正したうえ、長い髪のかつらを着用してつけまつげ、アイシャドウをするなど厚化粧をし、坂口においては、頭髪を長髪にしてパーマをかけたうえ、眉毛を刷って薄めにしたり、眼鏡をかけて口元に含み綿をしたりし、雪野においても、長髪にして髭を生やすなどし、それぞれいわゆる変装をして、いずれも指名手配書や報道上の人相とは相当異なる人相となっていたこと

(3) 右永田、坂口、雪野、牧田は、本件当夜被告人福冨に対していずれも偽名で自己紹介をしたこと

などの事情が認められ、以上の事情に照らせば、訪問に至る経緯、人相、自己紹介などの外形的な状況からは、訪問者中に指名手配されている永田、坂口がいると認識することは困難な状況下にあったとみられる。

そこで、当夜の会話中に真岡事件の犯人である永田、坂口らであることを窺わせる内容が存在したか否かを検討すると、

(1) 証人牧田滋子は、当初「永田が、福冨の帰宅後、逃走ルートの話をした。」旨を供述しているが(同証人に対する当裁判所の48・10・26尋問調書)、証人雪野建作は、「いろいろな闘争をやっている人の紹介を尋ねたことはあるが、逃走ルートの話は出なかった。」旨を供述しており(第九回)、証人牧田ものちに「どういう言葉で言ったかはっきりしない。」という曖昧な供述に変っており(同証人に対する当裁判所の50・4・24尋問調書)、被告人福冨の「全国的な地下組織をお持ちだと聞きましたがと言われた。」旨の供述(第一四回)をも併せ考えると、前記永田から「京浜安保共闘」の協力者の紹介依頼のような話が出たことは窺われるが、自らが指名手配の犯人であってその逃走ルートの紹介を依頼するような話をしたとはみられない。

(2) 関係証拠によれば、その後、右永田らから被告人福冨に対して、資金カンパの話や、同年六月一七日の明治公園事件の話、同年二月一七日の真岡事件の話、「朝日ジャーナル」誌に載った「京浜安保共闘」を名乗る人物の対談記事についての話などが出されたことが認められるが、いずれもいわゆる一般的な話題の域を出るものではなく、被告人福冨の対応も極めて消極的であったことが窺われ、証拠中には、右永田、坂口らが自分自身が指名手配中の「永田」、「坂口」であることを窺わせるような言葉を述べたというものはない。

(3) ところで、前掲各証拠中には、証人牧田の「永田が自分が女性では初めて指名手配になったので週刊誌などで面白おかしく取り上げられているというような話があった。」旨の供述があるが(前記48・10・26尋問調書)、他方で、雪野建作は、「永田が週刊誌に出ているとか、その記事が女性蔑視であるというような話をしたことはないと思う。」(47・7・18検面謄本)、あるいは「指名手配云々の話は僕達の方では話さないようにしていた。絶対相手にわからないように注意していた。」旨(第一〇回)を供述しており、また、証人福冨和子(当時)は、「子供を寝かせたのち午後一〇時すぎから女の人二人(永田、牧田)と三人で話をした。女性差別の話や、週刊誌などの女性蔑視の話などが話題となったが、永田洋子をはじめ特定の女性の名は出ていないし、指名手配の話なども出ていない。」旨を供述し(第一一回)、被告人福冨も、「自分がいた午後九時ころまでは、永田の指名手配の話など出ていない。」旨を供述している(第一四回)。そして、前記証人牧田も、のちに「朝日ジャーナル以外の週刊誌の記事の話が出たとき被告人福冨はいなかったかも知れない。女性のことが話題になったのは女の人だけのときだったと思う。特定の固有名詞も出ていない。」旨を供述している(前記50・4・24尋問調書)。

以上の証拠を総合すると、本件当夜女性の活動家のことやそれに関する週刊誌の記事などが話題になったことは窺われるが、前記牧田の供述によっても、それが話題になった時間帯及び話題の具体的内容は曖昧であって、しかも、雑誌記者である被告人福冨のいる前で仮りに永田洋子本人であることが窺われるような話題が出たならば、同被告人から何らかの発言があってもよさそうであるが、それを窺わせる証拠は見出せず、以上の点なども考え合わせると、そもそも女性問題が話題になったのは、被告人福冨が外出して中座していた間であるとの可能性を否定し難く(話題の内容も、永田自身が自己が「永田洋子」であることを明示するような発言をしたかは、疑問である。)、結局、これらの話題も、同被告人に当夜宿泊した者が「永田洋子」らであることを窺わせるようなものであったかは疑問と言わざるを得ない。

以上、関係証拠を検討しても、被告人福冨において、当夜宿泊させた者が真岡事件の犯人である坂口弘、永田洋子であること、ないし「罰金以上ノ刑ニ該ル罪ヲ犯シタル者」であることを認識していたと認めるに足りる十分な証拠は存在しないと言わざるを得ない。

(四) また、被告人福冨が坂口、永田を宿泊させたことが、刑法第一〇三条にいう「蔵匿」行為に該るか否かについても検討してみると、犯人蔵匿罪が司法に関する国権の作用を妨害することにより法益を侵害する犯罪であるとされ、同条に規定されている「蔵匿」とは、官憲の発見逮捕を免れるべき隠匿場を供給することを言うと解されるので、同罪が成立するためには、単に宿泊場所を提供する行為があれば足りるものではなく、それが犯人を官憲から匿う行為、即ちひそかに隠す行為に当たると評価すべきものであることを要すると言うべきところ、前掲各証拠及び前記客観的事実によれば、本件に関しては、次のような事情が認められる。

(1) 本件宿泊の経緯をみると、事前に何らの宿泊予約もなく、宿泊依頼の話が出たのが、訪問後数時間たったのちのことであり、宿泊そのものが当初より予定されていたものではなく、むしろ唐突なものであったこと

(2) 被告人福冨と坂口、永田らは、初対面の間柄であって、特別の信頼関係があったとはみられず、かえって、当夜の同被告人の対応ぶりは、途中で来宅した前記杉岡と話をしたり、宿泊を承諾したあとに、自分一人外出して時間をつぶすなど当初から冷やかともみられるものであったこと

(3) 被告人福冨宅の構造は、玄関を入ると台所があり、その奥が六畳一間という狭いもので、玄関を開ければ中まで見通せるような状況であったところ、右杉岡が来宅した際には、玄関に施錠もしておらず、また、右杉岡と話をしている際にも、同被告人において坂口、永田らを杉岡から隠すような素振りも見せていないなど、同被告人の当夜の挙動には、右坂口、永田を特に匿うような点がみられないこと

(4) 坂口、永田らにおいても、翌朝、早々に同被告人宅から退去していること

(5) 被告人福冨において、右坂口、永田らを官憲から匿うべき理由、動機が、証拠上窺われないこと

以上のような本件宿泊に至る経緯、相互の関係、被告人福冨及び右坂口、永田らの具体的挙動、同被告人の主観的事情などの諸事情に照らすと、同被告人において進んで同人らを宿泊させたというよりは、請われて断りきれずにやむを得ず、そのまま自宅に一泊することを承諾したというに過ぎないものとみられる。

結局、本件においては、被告人福冨が同人らを宿泊させた行為が、犯人蔵匿罪にいう「蔵匿」行為、即ち、官憲の発見逮捕を免れるように匿う行為と評価するに足りる十分な証拠がないと言わざるを得ない。

(五) 以上のように、本件においては、取り調べた全証拠を検討しても、被告人福冨において宿泊させた者が「罰金以上ノ刑ニ該ル罪ヲ犯シタル者」であることを認識していたことも、また、宿泊させた行為が「蔵匿」行為に該当することも認定するに足りる十分な証拠がなく、本件公訴事実については犯罪の証明がないことになる。

第五結論

以上検討したように、被告人桐野、同須藤、同岩渕及び同外狩に対する窃盗被告事件、被告人福冨、同桐野、同須藤及び同岩渕に対する爆発物取締罰則違反被告事件、並びに被告人福冨に対する犯人蔵匿被告事件については、それぞれ犯罪の証明がないことになるから、刑事訴訟法第三三六条により、被告人五名に対し、いずれも無罪の言渡をする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 竪山眞一 裁判官 池田耕平 裁判官 秋山敬)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例